日刊月刊つん太 2012年(代理執筆・由里)
最古(2000年11〜12月)//2011年//2013年//最新(2014年)の日刊つん太へ
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(ぱんつを冷蔵庫、は自分ではやらないけど抵抗薄い)(注:洗濯後に限る)
毎日郵便受けが詰まるほど投げ込まれるクリスマスの贈り物の広告を眺めておりましたら
「電子レンジでチンするくまぬいさん」が載っていました。
長〜いお腹の中にラベンダーの香りのジェル(?)が入っていて
レンジで温めて首に巻くとぬくぬく+良い香りがする「癒し系くまさん」らしいです。
いやしい系くまなら、うちにも大勢いますけど。1匹くらいは癒しの子がいてもいいかなと
そのお店にぬいハントしに行ってみました。
店内1周半してようやく見つけたその子。写真で見るよりずっと可愛かったです。
ただ残念なことに目が刺繍であるところが私の好みから外れました。
マットとか敬人とか、うちにも刺繍目の子が全くいないわけじゃないですけど
でも基本はボタンの点目!譲ってフェルト目と考えています。
夫は夫でその子の体内のジェルの重さに「こんな子乗せたら却って肩凝りそう」と難色を示し
結局のところ、その子を連れ帰ることはできませんでした。
「簾二(れんじ)くん」て名前もつけてあったのになあ。残念!
お店には、この襟巻きぬくぬくくまさんと同じ顔の「室内履きくまさん」も一緒に並んでいました。
襟巻きくん同様、電子レンジで温めると足元ぬくぬくで気持ちがよいらしいです。
これなら肩は凝らないし、むしろ(鉄ゲタみたいなもんで)体力強化にいいかもしれません(笑)
両足に履くものですから、当然2匹揃いです。そしたら名前は「でん子ちゃんと簾二くん」かな?
襟巻くんは「ひいと(表記未定)」に変更だぁ、などと楽しんでいたのですが、
はて。
「新品の初回はいいけど…」「履いて、冷めて、」「…そしたらもう1度チンするんだよねえ?」
「洗っていない使用済みの靴下を。」「ついでに一緒にココアの牛乳も温めちゃったり」「……」
まあ、その辺の感覚って人それぞれで、台所のレンジに靴下を入れても気にならない人はいるんでしょう。
「汚いヌイグルミ」をケーキと一緒に食卓に乗せて写真に撮るなんて我慢できないって人もいる筈です。
価値観のぶつかる者同士が同席しないよう、うまく棲み分けできれば平和ですけどね
「お呼ばれしてさ。レンジで作るポプコーンとか出されてさ。そんでその家の人がこれ履いてたら、どする?」
「逃げ帰るー^^」
とりあえず夫婦の感覚は似ている様なので良かったです。
今年私が行った「家から一番遠い場所」は、夏に行ったレンジャーズの本拠地の野球場でした。
家からの直線距離、48km。
病院勤め時代は直線50km以上(国鉄+営団の営業キロだと59.0km+自転車2km強)を通ってたんですが^^
1泊ヒューストン、否、せめて日帰りオースチンくらい行きたかった、なあ…
来年は、今年の分まで。
夫が切符を買った時点では、試合後に行なわれるカウントダウンイベントのお知らせが出ていたそうです。
但しダラス時間の深夜0時まで待つのは寒いし、面倒だし、会場職員だってさっさと家に帰りたいし、
テキトーなところでテキトーに秒読みしてカウントダウン気分だけ楽しもうぜ!という「仮想カウントダウン」です。
東海岸時間0時(ダラス時間23時)に「アメリカに新年が到着した!」と祝うとか、
或いはそれより更に1時間半早いカナダ最東端の0時を「北米大陸の2013年」と祝うとかならまだしも、
(いやそれはニューファンドランド島だけだから、大陸の新年はハリファクス時間0時=東海岸23時=ダラス22時かな)
「テキトーな時間にやっちまおう」てのが途方もなくいい加減で好感が持てるなと
正統派カウントダウンよりもずっと楽しそうじゃないか?と非常に楽しみにしていたのですが
あれ。今改めてその告知を読み直そうとしたら、見当たりません。
チームサイトをどう巡ってみても、アレン&カウントダウン等の語句で検索かけても出て来ません。
うーん。あんまり馬鹿馬鹿しいので中止になっちゃったかしら。それとも警備上の問題とか。
…「中止のお知らせ」も出ていないことに一縷の望みを繋ぎつつ
ふふ。いってまいりまあす♪
てことで、本年もいろいろありがとうございました。
秋にはご心配もおかけいたしまして、申し訳ございませんでした。(お蔭様で今は完全復帰しています)
皆様の2013年が良いお年でありますようね願っています。
内輪の話で済みません。
あれこれ面倒くさいので、この一件、私の両親には何も話しておりません。
これを読んじゃった近親の方(数名様心当たりあり)、どうか彼らには黙っていて下さい。
万が一、気まぐれ起こしてここを読んじゃった御両親様、読まなかった振りしておいて下さい(笑)
<先月のあらすじ>近所の医者で受けた血液検査の結果、重度の貧血で瀕死の状態にあることが発覚した由里。
原因疾患を取り除くため、開腹手術を受けることが決定した。運命の日は1週間後…… →詳しくは10月
準備
入院前に与えられた1週間の猶予期間中に私がしたことは、大量の冷凍食品を用意すること、
そして「指差し会話ノート」を作製することでした。
手術当日は入院時の事務手続きから麻酔が切れて苦しみだす頃まで夫が付き添ってくれる予定ですが
24時間付きっきりというわけにもいかず、夜は自宅に帰る=私は病院で1人になってしまいます。
翌日はドイツ(本来なら今、出張していた場所)と電話会議が入っていて、昼前にならないと病院に来られません。
1人でいるときに体に異変が起きたら、自力でなんとかしなくちゃならない。
そのための、単語を指差すだけで看護婦さんに症状を伝えられる特製ノートです。
震えたり、麻痺したりしているかもしれない指でも間違いなく目的の言葉を示せるよう、大きな字で、行間を取って、
苦しい状況で必要な単語を探しやすいように語彙を厳選して。
「痛い」「とても痛い」「我慢できないほど痛い」/「手術部位が」「お腹が」「頭が」「腰が」
(点滴漏れした腕、浮腫んだ脚など痛みが出そうな場所は他にもありますが、「ここ」と指差せば済む話です)
「トイレに行きたい」「排尿痛」「排尿困難」(血尿が出たなんてのは現物を見せれば済む話だから省略)
「寒気がする」「熱っぽい」「気分が悪い」「吐きそう」(吐いた、は見りゃ分かるよな)
「眩暈」「動悸」「息切れ」「胸が苦しい」「息が苦しい」「呼吸困難」(傷口開いた、は一目瞭然だよね)
緊急ではないけど一晩我慢するのも辛いかと「暑い」「寒い」「水が飲みたい」「眠れない」
用意した単語では済まない話のために「英語が分かりません。夫に電話して下さい、彼が通訳します。(番号)」と
「ゆっくり話して下さい」「ここに書いて下さい」(聞き取れない単語も、綴りが分かれば辞書を引けるから)
いっそ看護婦さんに電子辞書を使って貰った方が早いかもと本体蓋に「TRANSLATOR」と書いた紙を貼り付けて
文字盤のボタンの日本語「削除」や「決定」も英訳してシールを貼って、…こんなもんで、急場は乗り切れるかな。
あとは自身の火事場の馬鹿力に期待しましょ。麻酔から醒めたらいきなり英語ぺらぺらになってたりしないかな^^
(術後の体調がとても良かったため、結果的にはこのノートを使う機会は殆どありませんでした。
1度だけナースコールをする事態になりましたが、インタホンの向こうの相手とは指差しでは会話できません^^
ので、この局面ではノートは何の役にも立たず…
でもそこで用件を伝える最低限の英語が頭に入っていたのは頑張って自分で辞書を引いてノートを作ったからで、
そういう意味ではやっぱり準備は無駄でなかったと言えるでしょう。
それに、これがあったおかげで夫(通訳)のいない時間帯を安心して過ごせたのだし
備えあれば憂い無し、非常持ち出しリュックのような物だったと感じています。
反省点は「これは何と言う薬ですか/何のための薬ですか。ここに書き留めて下さい」もあった方が良かったと
次に夫か私が大きな病気をして「改訂版会話帳」を作るときは忘れず追加しましょう。
勿論、心配されるべき症状はその病気/手術で違いますから、その辺の修正も含めてね。)
して、案の定と言うか。あってはならないことと言うか。
しばらくして看護婦さんが持ってきた赤黒い血の袋には、なんとでかでかと「A」と書いてありました。
ちょっと待ったあ。私はAB型だあ!!
夫(通訳)は、この肝心な瞬間にこの場にいませんでした。事務手続きのために受付に行ってしまったのです。
「会話帳」は持って来ているけれど、「その血液は私に適した物でありません」なんて文章は入れてありません。
いきなりの大ピンチに、かなりパニックな私。
でも「英語が下手で恥ずかしい」なんて言ってる場合ではありません。輸血事故だけは断固阻止せねば。
必死の思いで「のー、のー!のっと、えー。あいむ、えーびー!」とか喚きました。
喚いちゃってから「私はABです」でなく「私のブラッド・タイプはABです」と言うべきだった?と気づきましたけど
どっちみちブラッドが正しく発音できるわけないですし。どんな出鱈目英語だって通じれば勝ちでしょお。
幸い、私の意図するところは看護婦さんに分かって貰えたようで「ああ、大丈夫よ」と袋をよく見せてくれました。
確かに袋に貼られたシールには私の名前と「AB」の文字も入っています。
そう、AB型の私は、Aの血もBの血もOの血も貰うことができます。できることになってます。
でもそれは、余程の緊急時、或いはRh-などの要素が絡んでABOの一致を無視せざるを得ないときの話であって
普通はAB型の人にはAB型の血を入れるもんだと思ってました。ああびっくり。
さらに2時間後、彼女が持ってきた2袋目の血を見て、夫と私、またも悲鳴を上げました。
今度の袋は「B」でした。
Aの血とBの血が私の心臓の中で混ざり合って固まったりしないのか!?
AとBを1袋ずつ入れたら体内でちょうどABになる…こたぁないよなあ?
外来の病室はインタネットが可能な環境だったので、ヒマな夫がぱこぱこと調べてみましたら
アメリカはAB型の人の比率が日本よりずっと低いんですね。Rh+ABが全人口の3.4%だそうです。
なるほどこれでは、よほどの大病院でない限りABの貯蔵なんか無いのかもしれません。
でも私、5日も前に輸血の予約を入れてたんだけどな…
次に輸血の必要な手術を受ける機会があったら、そのときは病状が許すなら日本でお願いしたいと思いました。
貧血が無ければ自己血輸血が一番なんでしょうけどね。
予約よりも早い受付だったので、時間までは待合室で所在無く過ごすのかなと思っていたら
(逆に言えば、それまではぎりぎり娑婆の人でいられると思っていたら、)
あっという間に名前を呼ばれて「準備室」のような個室に入れられてしまいました。
病院用の寝巻きに着替え、足には「血栓防止靴下」と「ゴムの滑り止めのついた靴下」を重ね履き、
右手の甲に針を刺されて早速食塩水の点滴開始。
下肢に奇妙なベルトを巻かれ(血圧計のように空気が出入りするらしい、これも血栓防止)、
不織布の帽子を被せられ、左の肘の内側に点滴針がもう1本入り、
「着せ替え競争」のモデル由里さんはどんどん「手術患者さん」に仕立てられてゆきます。
もうここまで来たらまな板の鯉。なるようになれ。
次々と当日の御機嫌伺い&問診に訪れる執刀医や麻酔科医、手術室看護婦さんたちに挨拶し
舌下に体温計を押し込まれ、腕に血圧計を巻かれ、手術開始予定の正午12時が迫って来ました。
が、この緊張感漂う時空間に、何だかとても相応しくない香りが漂っているのは何??
馬鹿夫が、待合室にあった無料のコーヒーを貰ってきて飲んでいやがりました。
今日の主役(←?)私は何も食べて無いのに!喉も渇いてるのに!
その横で嬉しそ〜うに香り高いコーヒーを啜りくさって、ええええい、こんちくしょ。
手術が終わって、傷が塞がって、通院の必要が無いまで回復したら離婚しちゃるわと心に決めました。
(通訳と運転手は必要という計算)
さてそのうちに、大量に滴下されつつある食塩水の影響でトイレに行きたくなって参りました。
が、現在点滴されている塩水の袋はベッドの頭部に固定されています。
先日の入院中のように点滴台を引きずって歩いていくことができません。
「どうしよう、看護婦さん呼ぼうか?」と夫。「急ぐわけじゃないから…次に来た人に頼めば間に合うよ」と私。
ところが、その「次に来た人」に、私はトイレ介助を頼む暇もなしにいきなり予備麻酔を打たれ
「じゃ、行きましょうね〜」とベッドを押され始めてしまい
慌てた私が「ちょ!ちょ!(ちょっと待てと言いたいが言葉にならない)」と焦ってる隙に廊下に出てしまいました。
うるうるした瞳で夫と見つめあい「頑張ってくる。」なんて難病物映画の主人公を演ずる気はありませんが
せっかく一緒の部屋にいたんだ、最後に「じゃね」くらい言いたかったな、もう1度顔を見たかったな、とか感じ
ほんの一瞬、目を閉じ、夫の顔を思い浮かべました。(浮かんだのは、嬉しそうにコーヒー啜ってやがる顔でした)
でも、そんなことより、まずはこの尿意です。
いつの間にか下腹が鈍く痛くなっていて、こりゃあトイレを我慢しすぎてしまったに違いありません。
どうせあと数分すれば術前の処理として導尿の管が入るのでしょうが、それまで待つのは辛いです。
目を開けるとそこに看護婦さんらしき人が1人いたので、声をかけてみました。「お、おしっこ」
…日本語です。
私だって、Pee(ちー)とかUrine(尿)とかBathroom(洗面所,化粧室)とか、複数の英語表現を知っています。
でも、既に麻酔が効き始めているせいか、どうも思考と発声器官がうまく連動していないようです。
日本語ならせめて「お手洗い」くらいの表現を使いたいと思って再度口を開くも、出てきた言葉はまたも「おしっこ」^^
私の声に振り向いた看護婦さんは「痛い?大丈夫よ、いま薬をあげる」と言い残して消えてしまいました。
いや欲しいのは薬で無くてトイレなんですが、でも日本語じゃ通じるわけないよな、と困りつつふと壁の時計を見ると
え。3時。
準備室を出たのは確か12時05分頃だった筈です。
もしこの時計が大幅に進んでいるのでなければ、「いつの間にか」3時間近くが経過していることになります。
それって、ましゃか、ましゃか。
おそるおそる体をまさぐると、知らない間に紙パンツのようなものを穿かされています。
臍より下のお腹全体に何か分厚いものが貼り付けられていて、体に直接触れません。これは。
本麻酔を打たれた記憶は全く無いけど、気管挿管されたことも抜かれたことも、手術室に入ったことも、
勿論切られたことも縫われたことも知らないけど、
もしかして、「ほんの一瞬」目を閉じた隙に、もう、手術されちゃったんでしょうか。
この下腹の痛みはトイレの我慢しすぎでなく、切った貼ったの痛みなんでしょうか。
あまりのあっけなさに言葉を失うわたくしでした。
やがて鎮痛薬を取りに行った看護婦さんが夫を連れて戻ってきました。
患者が回復室から出るまで付き添い家族は待合室にいるのが普通らしいですが
私は「英語が話せない要配慮患者」なので、通訳としての夫が回復室に入れて貰えたようです。
点滴の管に鎮痛薬の装置が接続され、夫は早速通訳業務開始。
「このボタン押すと、薬が入るらしい。痛いときに自分で押せって。
できたら10分くらいは間隔をあけて欲しい、でも無理な我慢はしなくていいって言ってる」
目覚めたときよりもお腹の鈍痛は強くなってきているので、手元の青いボタンを早速押してみます。
が、劇的にラクになるわけでもなく、効いているのかいないのか、5分待ってもまだ痛い。
5分待とう。今25分だから、30分になったら次の薬を入れよう、と思っているうちに眠ってしまい、気付いたら40分。
もうボタンを押して良いはずですが、でも何か、目覚める直前に夢うつつにボタンを押したような気がして
だったら今は押さない方がいいのかな。少し痛いけど50分まで我慢。50分まで待って薬を入れよう。
50分ボタン50分50分痛い50分ボタンボタン50分、薄ボンヤリした頭で考えてるうちに、あれ、分らなくなりました。
「50分」てのは、次のボタンを押していい時刻だっけ?さっきボタンを押した時刻だっけ?今は55分……
全麻の醒めかけの患者に「10分」の管理は無理なようです。結局、痛いときには構わず押しちゃうことにしました。
きちんと守った方がよい時間ならきっとタイマーか何か渡されると思いますし
「守らなければ危険」な薬ならば10分以内の再投与は絶対不可能なように安全装置がついている筈です。
患者本人にボタンを任せてるんだから、たいした薬じゃないのでしょう。
(ちなみにHydroMorphoneHCl、ほぼモルヒネです。以下不正確ですがモルヒネと記述)
結局、投薬開始から150分間で、私はボタンを7回押した=1.4mgのモルヒネを注入したようです。
この頃に夫が撮った投薬装置の写真に、それまでの投与量総計が表示されていました。
どんなにぐっすり眠っても、目覚めたときにボタンは必ず左手に固くしっかり握り締められていて
この頃の私にとってこのボタンは「何より大切なもの」だったのでしょう。
ナースコール用のボタンは邪魔で邪魔で寝ている間に無意識に払いのけてしまっていたんですがね。
自分の家族の手術の進行状況は、待合室に幾つか置かれたモニターに表示されるのだそうです。
患者名や病名は勿論伏せられて、受付で貰った7桁の「患者番号」で見ることになります。
「入室」「手術中」「手術終了」「退室済」の4段階の表示で、あまり詳しいことは分からなかったようですが
「皮膚にメスを入れた」(略)「縫い始めた」「縫い終わった」なんて仔細にわたって実況表示されても困ります。
暗証番号を入れると手術生中継映像が見られたり(笑)背後から他人に覗かれたらイヤなので当然個室でね。
そんなん実現したら、個室の中で卒倒する家族が続出しちゃうかな^^
手術が済むと、普通は患者がまだ眠っているうちに執刀医からの説明があり
一通り聞き終えたら一旦待合室に戻って、患者とは病室で合流するらしいです。
夫の場合は、私に言葉の問題があったために特別扱いで回復室に通されて
そこで手術室から出たばかり、まだ心電図ほか沢山の線と管に繋がれたままの私を見たそうです。
(意識回復前の患者には通訳は要りませんので、この配慮はイマイチ「???」です)
その後、医師の説明を聞きに行っている隙に私が目を覚ましたので
私の認識では「麻酔から醒めたら看護婦が夫を連れて来てくれた」になりました。
どーせなら目覚めた瞬間にそこにいて欲しかったな、などとは思いません。
私の主観では、ほんの数分前に準備室を出て、これから手術室に向かう途中なんですから。
夫の顔を見ても「なんであんたがここにいるのよ」と混乱しただけだったでしょう。
起きてしまいさえすれば、ベッドから下りて立つ→椅子に座る→椅子から立つ、は割合に簡単にこなせましたが
ベッドに戻るのに、足を引き上げることができずにまた一苦労。
翌日になってから気付きましたが、私の左腿は自力では動かせなくなっていました。
手で足を抱えて持ち上げることはできるのですが、自分の意志ではぴくりとも動かない。
手術台に固定するときに少し強く縛りすぎたためらしいです。(血行障害?そいとも筋を痛めた?)
右足と、左も膝から下は動いたので、ベッドの横の僅かな突起や隙間を足がかりに数センチずつずり上り
やっとのことでベッドに戻ったときはまたもマラソン大会(高校4.0km)完走したくらいの疲労感。
こんなことで社会復帰できるんでしょうか。せっかく貧血→息切れがなくなったのに、国立公園への道は遠いです。
てかそれ以前に、このままでは退院後のトイレが切実に困ります。
筋肉質でたくましい看護婦さんに較べ、夫はまるで非力です。私を引っ張り起こすことなど不可能です。
家のベッドは背中が90度起き上がったりしませんし、すがる手すりもありません。
入院中に意地でも自立しないといけないわけです。イバラの道は嫌いだがとにかく最善を尽くそう。
それに較べれば、翌朝から始まった歩行訓練は余裕の楽勝でした。
午前中は病室から廊下の端まで往復、推定50m。支え無しに、よろけることなく、何の苦もなく歩き切れました。
歩幅10センチx2秒に1歩=時速180mとかいう超低速でしたけど。(デンデンムシよりは速いぞ)
午後には5階の廊下をぐるり約120m、歩き足りなくてエレベーターに乗って院内探検に行こうと思ったほど。
(目の届かないところへ行かないよう言われていたので断念しましたが)
でもやっぱりベッドの上り下りが出来ない。
それでも初回よりは2回目、2回目よりは3回目とのろのろと上達して
手術翌日夕方には、辛うじて手助け無しに1人で起きられるようになりました。
夜には水平なベッドからでも起きられるようになり、これで自宅トイレの心配もなくなりました。
退院後に調べたら、日本だと手術当日は絶対安静の禁飲食が標準のようですね。
翌日にベッドから起き上がり、歩くのはその次の日。
「勝った」と思いました^^v 麻酔の種類や切り方・縫い方などたぶん違うので、単純比較は全く無意味ですけど。
さて、この「起きる→歩く練習」をしている間、私は1度も靴を履いていません。
手術前に履かされた、ゴムのイボイボの滑り止め付き靴下のままで床に降り、歩き回っていました。
(だって看護婦さんがそうしろって言うんですもん)
外から来た人が土足で歩いてる廊下に出て、トイレにも行って、その靴下のままベッドに戻る。
自由にならない足で悪戦苦闘するうち、寝たときに腰の下になる辺りを土足状態の靴下で踏んでしまって
次にベッドから抜け出すと、その汚れた腰部分に上掛け布団の腹部が接して汚染され
その掛け布団が、厚いガーゼと保護シートで守られているとは言え、昨日切ったばかりの私のお腹を包む……
私が神経質すぎるんでしょうか。アメリカ人が鈍感なんでしょうか。
退院後に使う自宅のシーツ類は入院前日に洗い、その晩は寝る直前に風呂に入って、
足拭きマットや絨毯やスリッパ内部の汚れを布団に持ち込まないよう細心の注意を払ってベッドまで移動したのに
まるで無駄な努力だったようです。悲しい。
不安でたまらない手術前夜の寝床にぬいぐるみを連れ込むのを必死で我慢したのは何のためだったんだ…
それでも炎症起こしたり化膿したりしなかったんだから、人体って結構強いもんなんですね、感嘆。
次の瞬間、私は半分だけ正気に戻りました。
やばい、ちょっとおかしい。さっきの薬のせいだ。看護婦さんに異常を知らせなきゃ。
「ね〜え♪この薬、変らよお〜?何か、すごおく変らよお♪」「あろねえ、世界が回ってるの〜、ぐる〜、ぐる〜って!」
…また(麻酔から醒めたとき以来の)日本語です。しかも、私の性格的にありえない、タメ口。
ここがアメリカであること、傍にいる看護婦さんがアメリカ人あることは認識できていました。
でも「だから私は、単語羅列でもいいから頑張って英語で話さないと通じない」なんて考えは全く浮かばず
らってここは夢の世界らも〜ん、人の心に国境は無いの、誰とでも日本語で解り合えるんらよお♪てな気分です。
もちろん看護婦さんに、私の喋っていることの内容が分るわけはありません。
でも、さっきまでお腹をかばいながら息も絶え絶え、必死の片言英語で「ぺいん(pain)…」とか訴えていた患者が
注射を打った直後から、浮かれた調子で(看護婦さんから見て)外国語でうわごとを言い始めちゃったんだから
こりゃ、日本語を理解しない看護婦さんにも異変は伝わります。
「ここに、しっかり掴まって」とベッドの縁を握らされました。
言われるままに掴まろうとして、でもベッドの縁は太くて持ちにくく、私は手元のシーツを握り締めました。
と、次の瞬間、ベッドが90度横転しました。
私は両手で必死でシーツにしがみつき、でも足元は奈落の底。しまった、あの看護婦、ニセモノだ!私、殺される!
ニセ看護婦が注射器を持っています。駄目、その毒針を刺されたら私は死んじゃう!!
必死で抵抗しようとしましたが、腕をしっかりと掴まれていて逃げられません。
薬液が静脈に入り、次の瞬間(こればっかり^^)私は猛烈な尿意をおぼえました。
無言でトイレ方向を指差す私。「1人で行ける?」と言いながら、後ろを支えるように付いてきてくれる看護婦さん。
出すもの出し終えた頃には、(残念ながら)私はほぼ正気に戻ってしまいました。
床頭台に置いておいた電子辞書を叩いて看護婦さんと単語だけの会話を試みますが、なかなか思いが届かない。
看護婦さんが「特製ノート」を見て夫に電話を入れてくれましたが繋がらず(午前1時過ぎ。たぶん爆睡してます)
結局、現在は完全に正気に戻っている、寒気や震え、吐き気なども無いことを確認して看護婦さんは出て行きました。
どたばた騒ぎで私はもともとの訴えであった腹痛のことなどすっかり忘れていて(事実もう全く痛くなく)
術後の疲れと麻酔の後遺症で、この後はほぼぐっすり安眠できました。
「ほぼ」と言うのは、解毒剤の利尿作用が効いて効いて、30分に1回は目を覚ましてトイレに通っていたからです。
(自力でベッドから下りられるようになっていて良かった!)
用を済ましたらベッドに戻り、30分間だけ爆睡してまたトイレ。
その都度、毎回、30分前に使ったトイレが綺麗に掃除されていて
熟睡してた私は全く気付かなかったけれど、看護婦さんは頻繁に私の様子を確認しに来てくれていたようです。
あのときの薬が何だったのか、私は知りません。
ちょっと多目のモルヒネかなとも思うけど
だとしたら「訴えを聞いた看護婦」「様子を見に来た看護婦」「注射した看護婦」が全部同じ人というのはありえないと
「123号室のカワハラさんからナースコールがあった」と報告を捏造すれば看護婦はモルヒネを入手し放題になる、
そんな危なっかしい仕組みはないだろう、必ず複数の職員の立会いが必要な決まりがある筈だと思うのです。
(回復室で夫が見たモルヒネ保管棚には鍵がかかっていて、他の薬剤とは明らかに別の扱いだったそうです)
モルヒネでないなら、じゃああの薬は何だったのだろう??
自分の体に関わることです。きちんと聞いて、確認しておくべきなのかもしれません。
でも…知ってしまったら、私はその薬を何としてでも入手して、もう一度試してみたくなるような気がします。
一度だけ試して、それで終わりにできるような強い人間ではありません。
あっと言う間に私の体はぼろぼろになるでしょう。小遣い稼ぎのためにけち臭い犯罪を始めるかもしれません。
知らない方が幸せです。たぶん。
あの幻覚の前半は本当に幸せだった、今までの人生の中で一番ハッピーな体験だったと言っても良い位でした。
…いい思い出になった、という言うことにしておきましょう。
たぶん流動の次の段階としてオートミールや柔らかく煮こんだスープなどの軟食メニューもあるのでしょうが
消化器をいじっていない私は2食目(手術翌朝)からもう「レギュラー・ダイエット(常食)」に上りました。
まだガスだって出ていないのに、本当に固形物を食べちゃって問題ないのかと疑念が消えません。
看護婦さんによれば「食べなきゃ駄目、食べれば腸が動いてガスも通る!」だそうで
卵が先かニワトリが先か。日本とは考え方が随分と違うようです。
して、その一般常食の内容と言ったら。ええ、ええ、覚悟していた通りの「普通のアメリカン」でした。
朝はパンケーキ、ワッフル、そしてチーズたっぷしのオムレツとベーコンなどなど。
一番食べやすそうかと選んだフレンチトーストは巨大なのが4切れ(食パン2枚分)もあって、見ただけでげんなり、
切り刻むだけ切り刻んで、シロップかけて突つき回した挙句に一口しか食べられませんでした。
…給食のオバサンだった頃の私たちが、一番嫌った食べ残し方です。
患者さんが食べ物を弄んでいるわけじゃないことは、ちゃんと分かってました。
食べようとして頑張って頑張って頑張って、だけどどうにもならなかったんだって、知ってました。
でも見るのが辛かった、お粥に梅干入れて醤油かけて煮魚もぐちゃぐちゃに掻き混ぜて、結局食べていない茶碗。
…ごめんなさいカフェテリアの皆さん、しょぼん。
昼夜はハンバーガー、ビーフシチュー、ピザ、ラザニア等々、デザートはチーズケーキにブラウニー、苺クレープ。
まだ朝食が胃に残ってる気がして「今いらない」と断ったら看護婦さんに怒られました。
仕方ないので果物だけと言ったら、そんなんじゃ駄目、肉を取りなさい、あなたは蛋白質が必要なのとまた怒られた。
放っておくと血の滴るようなステーキなど勝手に注文されてしまいそうだったので
これなら頑張れば喉を通るかとチキン・ヌードル・スープとトーストを追加しました。
日本人にとっての煮込みうどんに相当するような、代表的病み上がり食です。
看護婦さんはまだ不満そうだったけど、私の努力は認める?という感じでしぶしぶ許してくれました。
が、やっぱり無理です食べられません。
スープは上澄みを啜っただけ。トーストひとくち齧っただけ。
メロンは頑張ったけど皮付きブドウと生のパイナップルは手もつけられず。
お粥に梅干、豆腐の味噌汁、鰈の煮付けと大根おろしが食べたいな、くすん。
ってか、メニューを隅から隅までまでちゃんと読んでいれば、コメや魚も食べられたんですけど。
退院後に見直したらメインディッシュの一覧の下に「ほとんどの料理はソース無しでも提供できる」とありまして
だから頼めば「グレイズソース無しの焼いただけの鮭」が貰えたんです。
「トロピカル・ライムソース無しの焼いただけのティラピア(白身魚)」も美味しそう。
付け合せ野菜の選択の中には「スチームド・ライス(白米)」がありました。
手術直後は小さな文字を読むのが辛かったので、細かな添え書きには気付けなかったです。
こんなことなら入院前にあらかじめメニューを貰って研究しておくんだった(笑)。
ついでに高蛋白食とか低脂肪食とかの特殊メニューも見せて欲しいと言ってみたり。
あ、イスラム教徒やヒンズー教徒のために配慮された献立は存在しませんでした。
キリスト教系大学の関連病院なんて、こんなもんっすかね。(義憤)
この病院のカフェテリアでは、付き添い家族も同じ料理を同じように注文することができます。
メインとデザートは1品だけと制限ありますが、それ以外は何でも頼み放題で1回10ドル、
でも患者本人が食べたか家族が食べたかなんてカフェテリア側で把握できる訳もないし
夫、私の注文に こっそり「間違えて」自分用のコーヒーを紛れ込ませてました。
私が要らないと言ったら「じゃあ捨てるの勿体無いから貰っちゃおうかなー」って^^
だったらコーヒーだけなんてケチなこと言わずにアップルパイでも取れば良かったのにと不正行為教唆したら
「鶏スープも飲めないほど衰弱した患者がアップルパイだけ完食してたらマズイでしょう?」^^
パイが駄目でもアイスクリームくらいなら不自然でも無いような…むにゃむにゃ。
とは言え、家でコメの飯を食える、ぬいぐるみたちに会えるのは単純に嬉しいです。
何より、夜間、誰にも邪魔されずにゆっくり寝られるのはとても有難いです。
午前4時半に起こされて「名前と生年月日を言え」と言われ、5時に血を抜かれ、うとうとしたら6時に検温。
そんで7時にカーテンを開けに来た看護婦にとびきりの笑顔で「おはよう!よく眠れた?」と言われた日にゃ!!
採血は安静時とか空腹時とか条件付きの検体が必要だったのでしょうから仕方ありません、
でも何故4時半に生年月日?意識障害が危惧される状況でもないのに???
もしかしたら本当に危なかったのかもしれませんが。あの幻覚騒動の後ですから。
とにもかくにも不安:喜び=3:1くらいの割合の気分で揺れながら、病室にやってきた夫に退院決定を報告。
そこへやってきた看護婦さんが「先生にきいたわよ、退院だって?おめでとーっ!」と祝賀モードなので
私もなんとなく流されて退院を受け入れる気持ちに傾き始めました。
担当看護婦さんのことは完全に信頼していたので、彼女が大丈夫と言うならそうなんだろう的な思いもありました。
ところが、看護婦さんから退院後の生活の諸注意を受けたり、山のような書類にサインしたり、
(その書類の中に「術後○○時間は重要書類にサインしてはならない」という文章があって苦笑い)
その途中で看護婦さんがとんでもないことを言い出しました。
「帰る前に抜糸することになってるみたいだから、準備しといてね」
え。医者は週明けに抜糸に来いと言ってた筈。それともあれは「抜糸後の状態を見せに来なさい」だったの?
自分の聴き取り能力にはあまり責任を負いたくない私。
でもまだ縫合からまだ40時間しか経っていないのは絶対確かです。傷がくっ付いているとは到底思えません。
看護婦さんは「私も今日抜糸っていうのは早過ぎると思う。でもYuriの名前で処置室の予約が入ってるのよ」と
病室内のコンピュタ端末を叩いて見せてくれました。確かに私の名前だ…。さあどっちを信じよう。
だから通訳抜きで大切な話を私にするなと言ってあるのに、カルテにも朱書きされてるはずなのに!!
看護婦さんと夫、私、微妙な沈黙の後、看「先生に電話で確認しましょう」 夫・私「それがいいと思います^^」
して、結果的には(奇跡的に)私の耳が正しかったです。
もし私たち3人全員が私の聴き取り能力を全否定していたら、私のお腹の糸は今日、抜かれてしまったんでしょうか。
その結果、その場ですぐに傷口が開いてしまったならば大慌てで再縫合すれば済む話(?)ですが
辛うじて繋がっていた薄皮1枚が帰宅後に破れたりしたら、ぎゃお、あまり考えたくないすぷらったかもしれません。
それにしても誰が処置室に謎の予約を入れたのでしょうね?私に殺意を抱いてる人が病院内にいるのかな^^;
尚、面倒なので「糸」と書いてきましたが、私のお腹をひっつけたのは正確にはホッチキス状の金属です。
その針を抜くのは抜鈎と言うらしい。30年^^生きてきて、外科病院勤めもして、でも初めて聞く単語でした。
「退院になるなら」ということで、シャワーの許可も出ました。
「浴びてから帰る?」と看護婦さんに聞かれましたが、普段から体の衛生に関しては全く神経質で無い私です。
たかが2、3日お風呂を使わなかった程度ではまるで何も気になっていません。
それよりも傷口が濡れてしみて痛むことが恐怖で、シャワーは断ってしまいました。
後になって考えれば、これは私の今回の一連の出来事の中で唯一の「判断ミス」でした。
病院で浴びなかったシャワー、家に帰ったらますます浴びたくなくなります。
看護婦さんは「サランラップを傷に当てて四方をテープで塞ぎなさい」と助言をくれ、テープ1巻も貰えましたが
ほんの僅かな隙間からもシャワーのお湯はどんどん侵入し、ラップの下のガーゼを湿らせてしまいそうです。
それ以上に怖いのはシャワーの強い水圧です。
どんなにそっと触れても痛む傷口。切った線1本でなく、その周囲、掌2つ分位の面積がどこを触っても痛む、
そんな状態のお腹にシャワーが当たったら、きっとのたうちまわる苦しみでしょう。
のたうった弾みで濡れたタイルに足を滑らしたりしたら阿鼻叫喚地獄絵です。
想像するだに恐ろしく、結局私は背中にちょろちょろと僅かなお湯を掛けることしかできず
浴槽に浸かる許可を貰えるまでの3週間、分厚い垢のコートを纏って暮らすことになりました。
あのとき、豪快で情け容赦ないあの看護婦さんに「大丈夫よ!」と頭からお湯を掛けられてしまえば
次からは開き直って毎日シャワーに入れたんじゃないかと思うのです。
まあ不潔な体から雑菌が回った挙句の最悪の事態には至らなかった、ちょっと頭が痒かっただけで済んだので
過ぎてしまえば「どーでもいい話」ですけどもね。
とにもかくにも。着替えを済ませて荷物をまとめ、看護婦さんに挨拶をして、病院にさようなら。
お腹を縫い合わせてからまだ43時間です。道路のほんの小さなでこぼこがお腹に響き、なかなかの地獄です。
それでも直前に少し強めの鎮痛剤を貰って飲んであったので随分マシだったのでしょう。
事前調査では、悲鳴を上げ通しだったと言う人多数。車内で吐いたと言う人も複数。
私は右手にしっかりとポリ袋を握り締めてそのときに備えていたのですが、袋は使わずに済みました。
(左手は、少しだけ長めに引き出したシートベルトをお腹の上でたるませた状態で握り締めていました。
普通にベルト締めたら傷に当たって激痛ですもん)
家に着いて、とりあえず一番ラクなボロTシャツに着替えて自分のベッドにもぐりこみ
昼飯は、冷凍しておいた白粥に、梅干をひとかけら。削り節少々。
シアワセ。やっぱ退院してきてよかった(笑)
術後1週間くらいはクシャミをするときに腹が裂けるのじゃないかというほどの激痛が走りましたが
せいぜい日に数回、ほんの一瞬のことですから我慢の限度内です。
それよりむしろ辛かったのは、調理台・流し台がお腹に触れたときの静かな、でも「…う」と思うような痛みでした。
1回1回はそれぞれ小さな痛みですが、1時間台所に立てば50〜100回以上の「う」になるわけで、これは応える^^
結局、傷周辺の腫れが引くまで2週間は冷凍のおかずと、夫が帰宅後に作る「男の料理」に頼ることになりました。
24時間いつでもどこでも眠かった、うっかりすると鍋を火にかけたまま居眠りしてしまいそうで
どっちみちマトモな料理は難しかったんですけどね。でもせめて野菜を切る位は自分でしたかったな。
台所仕事ができないとなると毎日暇で暇で暇で暇でとても困りました。
掃除はできないし(やる気もないし)、洗濯は洗濯機がしてくれて干す手間もかからない、
乾いた服を乾燥機から出して片付けるのなんて1回5分で終わってしまいます。
(でも輸血前はこの作業で息切れして途中休憩が必要だったのよねー。おそろしい)
後になって、そーか溜まりに溜まった英文レシピの翻訳作業に勤しめば良かったのかと気付きましたがもう遅い^^
せっかくのチャンスだったのになあ。むう。
暇潰しにと、ダラス・スターズの古い試合ビデオを見てしまったのも痛かったです。
結果の分かっている試合なのに、つい夢中になって拳突き上げて「うぉー!!」とか絶叫しつつ立ち上がってしまい
腹に力は入るわ、机の角に傷口ぶつけるわで悶絶しました^^ま、これは自業自得です。
あと痛かったのは、退院当日、ぬいぐるみに腹を蹴飛ばされたときですかね。
悪気があったわけじゃない。わざとじゃない。分かってます。
ずっと私を心配してくれていたぬいが、私を出迎えに駆け寄ってきて、勢い余って足がお腹に当たってしまっただけ。
盲腸を切って家に帰ったら愛犬にじゃれつかれて傷が開いて縫い直しになったシックステンよりはマシです。
(リンドグレーン『カッレくんの冒険』。私が極度に怯える「傷口開く」の原点だったりします)
でも、本っっっ当に痛かったの。我に返ったときはわたくし、そのぬいぐるみをひねり潰しておりました。
その後1週間ほどで、そーーっとなら傷に触れても割と平気な感じになり
そしたらたちまち大流行しました。ぬいぐるみたちの新しいお遊び
「由里姉ちゃんにこっそり接近して、お腹に触って、『さぁわったッ』とひと声叫んで逃げる」
お腹の手前2センチほどの位置で手を止めて「ぼく触ってないよ♪」と言いつつ逃げるという進化型?もあり
私を大変にイラつかせてくれました。
今は触られても「全然平気」になってしまったため、触って遊ぶことの面白味もなくなり、流行りは廃れましたが
逆に私が臍下に縫い目のあるぬい(余湖、るだ、聡一ほか)を捕まえて、わざと縫い目をぐりぐりして遊んでます。
奴ら、ちゃんと痛がるんですよ^^手足や顔の縫い目は触られても平気なくせに(笑)
…良い子はマネしないように。
枕元にはゴミ箱を2つ置きました。1つは普通にチリ紙などを捨てるため、もう1つは急な吐き気に備えてです。
鎮痛剤が体質に合わないと結構「来る」と聞いたんですが、私は運よく大丈夫でした。良かった。
登山用の杖。家の中には病院の廊下のような手すりは無いので、しばらくはこれにすがって歩くつもりでしたが
歩行には何の支障も無い状態で退院できたので、これも使いませんでした。ちょっち拍子抜け?
突然に体調が悪化して、痛い、苦しい、声も出せない、そんな事態に陥ったときに夫を呼ぶ道具として
ベッドの支柱には登山用くま避け鈴をぶら下げました。
どんなに弱っていても音を出すことが可能なスグレ物です。
音の大きさではハーモニカや縦笛に敵いませんが、家中どこにいても聞こえることは事前に確認しました。
但しテレビなど観ていたら負けます。就寝中も気付かない可能性が高いです。
幸い今回は使わずに済みましたが、これから年を取ればいろんなことがあるでしょう。
寝室2つと居間、風呂場を繋ぐインターホンの設置は真剣に検討中です。
どんなにこっそりチョコの銀紙を剥いても家中まる聞こえですぐにバレた日本の2DKが恋しいな^^
寝たまま手が届くように線を延ばした電話は、短縮番号#1を夫の会社、#2を夫の携帯電話に設定しました。
但し、携帯の番号を知っているのは私とごくごく限られた同僚だけなので
普段掛かってくる電話は無差別攻撃の宣伝と間違い電話だけ→夫は電話が鳴っても無視する癖がついており
いざという場面で電話をしてもおそらく役に立たなかったのでは無いかと思っています。
電話に出なくても良い、どこから掛かって来たかの確認だけは必ずする習慣をつけて欲しいです。くすん。
結局、事前に用意したあれやこれやは殆ど使う機会がありませんでした。
使い捨て濡れタオル(「xxウェッティー」の類い)は、手術当日の夕飯時にちょっと便利でしたけど
でもこれも洗面台まで歩けるようになれば不要なので、3枚くらい使っただけ。残りは既に干からびています。
全体的に心配し過ぎの過剰装備だったとは思います。でも反省はしない。
わざわざ買った物はではないし、「準備してなくて慌てる」よりはずっと良いです。
次に夫婦どちらかが病気をしたら、そのときはもっともっと備えて備えて備えまくることでしょう。
入院前の準備が足らず、退院後に夫に頼んで買ってきて貰った唯一の物が「素麺」でした。
まさか、うどんが茹るまでの僅か10分間を起きていられないほどの眠気に悩まされるとは予想していなかった(笑)
2分で茹る素麺は偉い。
素麺と、冷凍ご飯+電子レンジが無かったら、1人の昼飯にとても困ったでしょう。素麺さんバンザイ!
部屋は個室だったので、同室者との会話に悩む必要は無く、大変に助かりました。
いっそ6人部屋8人部屋なら私1人カーテン引いて引き篭もっていてもいいのでしょうが
2人部屋で会話が出来ないと、息苦しいわ申し訳ないわで辛かったろうと思います。
暇を持て余した同室さんを相手に無料英会話レッスンできてラッキー♪と思わない所が駄目なのよねえ(笑)
でも、でんでん虫よりのろい歩みかもしれないけど、これでも、私だって、進歩はしてるんだぞ。
06年8月に歯医者で「No pain?」と聞かれたときは「大丈夫」の意味で「Yes」と答えた私。(→林檎を齧ると〜)
今回はちゃんと「No」って言えたもん。
合計十数回に及ぶ採血や点滴の度に取り違え事故防止のために「名前と生年月日」を言わされて
おかげで自分の誕生日だけは英語で淀みなく言えるようにもなりました。(中1レベルくらい??)
あとは2つの臓器の名前を覚えたのが今回の収穫かな?でも使う機会は少なそうな単語だからじきに忘れるかも。
あ、「点滴=drip」はきっと忘れない、今後はコーヒーを飲むたびに肘の内側に微かな痛みを感じることでしょう。
全てを振り返って今思うこと…「最初の検査が超音波だけで済んで良かったなあ」
胃カメラ(日本で1度経験あり)も怖いけど、バリウム(同3度)はもっと怖い。
「一口飲んで下さい」「右を下にして回って」「ゲップしないで我慢してー」
英語をきちんと聞き取って指示に正しく従うことができるようには思えません。
夫に通訳して貰えればいいけど、あの指示を出す小部屋も放射線管理区域内よね?
関係者以外の立ち入りが許されるのかどうか。
まあ、この国で英語を理解しない人間なんて珍しくもない。聴覚障害の人だっています。
検査を乗り切る方法はきっと何かあるのでしょうけど。でも怖いっす。
あとは…これも経験せずに済んだ。小説などに見かける全麻の風景「100から逆に数字を数えて下さい」てやつ。
実は手術2日前の夜、素面状態で練習してみたのです。
「ナインティナーイン、ナインティエーイ、ナインティシークス…」97が抜けました。
「ナインティワーン、ナインティ。………」89が出て来ません。
これを「もう麻酔が効いてる」と誤解されて切り刻み始められちゃったらと思うと大恐怖です。
10からの秒読みなら自信あるんですけどね。(大勝してる試合で最後の10秒にカウントダウン大合唱するので)
予備麻酔で眠りこけられる幸せな体質で本当に良かったです。
…実は本麻酔を入れるまで起きていたのに当時の記憶を失っているという可能性もありますが。
よほど思い出したくない何かがあった、例えばまだ意識があるのにメスを、ぎゃお^^
一生思い出さないままでいたいです^^;
術後3週間程が過ぎ、2度目の健診も無事に済み、体に関しては何の心配もなくなった頃、
当初の予定より約1ヶ月遅れて夫は1人でミュンヘン出張に旅立ってゆきました。
そして、残された私はドイツ旅行の夢を見ました。
空港の保安検査所。私は全身まる裸状態に透視される新型検査機にかけられていました。
(ダラスの空港にも既に配備されていますが、私自身がその装置で調べられたことはありません)
職員が見ている画面の中、私の腹部に、大きなハサミの影が映っています。
これは駄目!持ちこめないよ、と職員。でも私、そんな物、隠してない。Tシャツの裾をまくって無実を証明する私。
「もしかして手術受けたことある?」「はい先月」「じゃあそのとき忘れられたんだね」
大丈夫、すぐに出せるよと空港内の診療所のような場所に連れて行かれ
麻酔も無しに、消毒も無しに、まるで旅行鞄のファスナーでも開くようにお腹を開けて、もちろん血も出ず、
着替えや洗面具の詰まったお腹からハサミだけ取り出して、閉じて、そして私は無事に飛行機に乗りこんだのでした。
割とよくあるんだよ、毎日2、3人は来るねと診療所のお医者さんは言ってました(笑)
ちなみにハサミが忘れられていた場所は私の手術部位とは遠く離れた胃の辺りで
小学生が図工で使うような先の丸いハサミ、プラスチックの握りには名前シールが貼ってありました^^;
そして今、術後7週間。
もう傷口(つか、既に「傷痕」)に触っても痛まないし、ジーンズも穿けるようになりました。
スターズ戦のビデオに「良しっ、行けっ、そこだ、打て!!」と興奮しまくりお腹に力を入れても平気です。
但し見た目は赤っぽくテラテラ光って、かなり目立ちます。色と言いツヤといい、まさにミミズ(体長14cm)。
ついつい「みずみちゃん」などと名前を付けて可愛がってしまったり。
数年のうちには少しずつ薄くなっていつか消えてしまうのかなあと思うと妙に寂しいです。
永遠に居座られても困りますけどね^^
6週間目の健診(抜糸含めて3度目)で何も問題が無かったので、病院通いからも解放されました。
飛行機に乗って日本にも行くのも大丈夫。
重い荷物は少々不安ですが、買い物を厳選して軽量化に努めましょう。のんびり温泉に浸かるのが楽しみです。
(「傷痕を綺麗にしてくれるとってもいいクリーム」を勧めて下さるお節介様なオバサンとかに遭遇しないことを願う^^)
先月末から今月中旬まで僅か20日あまりの間に
立て続けに3つも「2012年我が家の十大ニュース」的な出来事が発生しました。
しかもたぶん1〜3位を独占しそうだし。(2・3位は微妙かな、電子レンジ騒動に負けるかも。でも1位は1位確定)
いやあ、人生は七転八倒、禍福は糾える塞翁が丙午。ほんまにわけわからん。
ただ1つ確かなのは、私たち夫婦って実は強運なのかもということです。
今、NHLがロックアウトされていて、本当に良かった(笑)
もしも普通に試合が行なわれていたら、買ってあった前売り切符が大量にムダになるところでした。
「十大ニュース・第1位」の事件の顛末からして、少なくとも今月16日の本拠地開幕戦には絶対に行けなかった。
10月の残り試合、11月の試合もかなり危なっかしい感じだったでしょう。
仮に「第1位」が無ければ「第3位」のできごとが順調に進み、やっぱり開幕戦は諦めざるを得なかった筈です。
もし「第2位」の難題をふっかけられたのが「第1位」事件の後だったら私の答えは「Yes」だったかもしれず
そうしたら来年1〜3月の試合は生観戦どころかテレビ視聴も難しい環境となり
さらには今後スターズ戦を本拠地AACで応援する機会は数年に一度あればいい方てことになっていました。
そして万が一「第1位」事件が違う展開を辿ったら、私はもう2度とホッケーを見ることができなかったかもしれません。
NHLはおろか、AHLもCHLも、大学ホッケー、オリンピックや世界選手権のテレビ観戦も永遠に。
そうならずに済んでいる。私たちは、ついています。いえい!
現状でも「試合を見られない」事実に変わりはないけど、中止になった試合の切符代金は返金して貰えるもんね。
第一、他の人はちゃんと楽しんでるのに私たちだけ行けないなんて、口惜しいもの。
ホッケーの神様ありがとう^^
2月に夫がミュンヘンに出張し、その直後から「9〜10月頃にもう1度行くかも」という話はありました。
秋なら気候もいいし、町の様子が分かっているので安心だし、そして私は本物の芋団子(→3、4月)を食べてみたい。
なのでそのときには私も一緒にひっついて行く約束になっていました。
たぶん最初の1週間は、夫はみっちり仕事。その間私は1人でホテル周辺を散策して過ごし
もしも度胸があったら地下鉄でミュンヘン中心部まで探検に行ってもいいかなと
その後、夫の仕事が無事に全て済んだら、1週間程度の休暇を貰って2人で本格的に市内観光をする計画で
そのために夫は夏休みを取らずに有給を節約し、夏の国立公園旅行を我慢して私の旅費を捻出し、
そして9月最終週、飛び込んできた「10月7日に出発で決定」の報!
残念ながら行き先はミュンヘンだけ。ベルリンのおハルさんとルドルフの墓やブレーメンまでは足を伸ばせません。
ロンドン・パリ・ローマ4日間!なんて無謀な行程に挑戦する気もありませんから
「霧にむせぶタワーブリッジ」「パリ・オペラ座の裏」「ヴィラ・ローザ」等も見られません。
でも「chap.1 スノーライン 1984年2月 西ドイツ インツェル」なら、迷子にならなければ車で1時間ほどの距離。
ひょっとしたら日帰りで「イワンの馬鹿」と呟いて来られるかもしれません。
仮に駄目でも、私にとって初欧州です。初のユーラシア大陸です。
毎年の米国内旅行、或いは日本帰国旅行と較べ、私は明らかに舞い上がっていました。
さらに我がスターズの若手Jamie Bennがドイツのアイスホッケーリーガと短期契約を結んだとの速報が入り
(NHLが機能停止している間、欧州やロシアに小遣い稼ぎに行く選手は多い)
調べたらおお!彼が入ったハンブルクのチーム、ちょうど私たちの滞在中にミュンヘンでの試合が組まれています。
凄げえ、これは絶対にスターズのジャージを着て応援に行かなくちゃ。
過剰に興奮しながら必要物資を買い出して荷造りを始めましたところで
があああん。そこに「2012年十大ニュース・1位」の事件?が勃発し
私の渡航は当然中止となってしまいました。しょぼん。
夫の出張も会社に無理を言って来月に延期して貰いました。が、どっちみち私は留守番です。
行きたかったなミュンヘン。食べたかったな芋団子。見たかったなドイツでのベンの雄姿…
来春頃に、もしかしたら、また出張するって。そのときは一緒に行けるかもって
あまり期待しないでおきます。ぐすぐす。
9月末、夫に、転勤の打診が来てね
行きたくなければ行かなくていい。断ってもそのことが原因で不利になることはない。完全に夫の自由意志だそうで
夫自身は「行ってみたい気持ちと、行くのが不安な気持ちと、完全に半々」「だから奥さんの意見を聞きたい」って
私は「イヤだよ。サンノゼにはダラス・スターズが無いもん。」と即答しました。
「我らがダラス・スターズの主将がその頭上に高々とスタンレーカップを掲げる姿をこの目で見ないうちは
私はダラスを離れることなんて絶対にできません。
日本には戻りません。日系老人ホームのある西海岸に移ることもしません。」
2年前の11月に日記に書いた言葉は本当に本気です。私はこの一生をスターズに捧げる覚悟を決めて居ます。
いえ勿論、サンノゼへの転居を拒む理由はそれ「だけ」ではありません。
数年〜数十年以内にはきっと来るであろう西海岸の大地震に対する恐怖とか、
観光地(サンフランシスコ)が近くなることで出現する「泊めてねえ♪」の自称お友だちへの対応の鬱陶しさ、
或いは観光地至近であるにも関わらず誰も遊びに来てくれなかった場合の孤独感、
せっかく手に入れたこの「広大なお屋敷」を手放すことの悲しさ、
(テキサスだから買えた家です。サンノゼに行ったら、1/4くらいの面積のアパート暮らしになるでしょう)
…考えれば考えるほど、サンノゼ転勤は私にとって負の要素しかありませんでした。
でも、10年〜20年先の生活を思えば、今のうちに西海岸に移っておく方が賢いことなのも理解しています。
サンノゼからなら、日本への飛行時間は3時間も短縮されます。
今よりずっと衰えているであろう10年後の私にとって、その3時間は天国と地獄の差になるでしょう。
日本との時差も、2時間小さくなります。それもラクです。
15年後の私は10時間の飛行に耐えられないまで老いて、日本帰国など不可能になっているかもしれませんが
そのときには、日系スーパー、日系書店、まともな日本料理店、日系100均屋さんまであるカリフォルニアの生活が
きっと何より救いになると思います。
日本語で医療を受けられる。夫が倒れても「誰か助けて!」と日本語で叫んでいれば何とかなる環境。
そして日本語の通じる日系老人ホームで過ごす最後の数年間……
老後の私にとって(スターズが無いことを除けば)理想の土地であることは間違いありません。
だけどいざ60歳になってしまってからでは、もう引越しは不可能です。
荷をまとめ、この家を掃除して、売却し、新天地でアパートを探し、部屋を整える体力気力は残っていません。
引っ越すなら、だから今が最後のチャンスです。
会社都合での転居なら、費用も会社が出してくれるしね。
かれこれ20年近く前に3ヶ月滞在したカリフォルニアの写真を引っ張り出してきて
「またエクスプロラトリウムで遊べるよ」「モントレーの海で生ラッコを見られるし」
「スターズ@SJシャークスは年3試合もあるよ、プレイオフ含めれば最大7試合来るよ」
「サラトガのコーヒー屋さんはまだあるのかな、カプチーノ飲みたいな」と気持ちを高めようと努力して
だけどつい口に出てしまう「テキサスBBQの美味しい店なんて、無いだろうなあ」「TEX-MEXも無いよねえ」
「Cici'sも」「美村も」「仁記も」(←我が家のお気に入り飲食店。一部ジャンク含む)
夫婦で1週間、ぐちゃぐちゃに悩みまくり
…結局、転勤話は、断りました。
今サンノゼに引っ越したら、私は残りの人生数十年、確実に「ダラスに帰りたい」と泣き続けるでしょう。
環境変化に弱く、いつもいつも「前に居た場所」に戻りたがってばかりいた私。
引っ越し前に住んでた町、卒業してしまった学校、去年のクラス、先週までの席…
「今居る、ここ」を肯定的に受け止めて「大好き」と言えたのは、私の人生でこのダラスが初めてでした。
遊びに行く場所としてはサンノゼは世界で2番目に好きな街ですが、住むならやっぱり、ダラスがいい。
夏は糞暑くて外に出られないけど、ユニクロ無いけど、日航も飛んでいないけど。
今後数年間、日本食に飢えるたびに「あのときSanJoseに行っときゃ良かった」とか愚痴は言うかもしれないけど。
でも、これからも私は、スターズと一緒にダラスで生きてゆきます。
フランを食い飽きた「つの字」がダラスに帰ってきたとき、私たちがいなかったら奴は泣くだろうしね。
とか言って、スターズが身売りして西海岸に移転したら私も一緒に引っ越すかもしれませんけど(爆)
余分な心配をおかけしてはいけないので、結論から書きます。
10月10日に開腹手術を受けましたが、経過はいたって順調。予定通り2泊3日で退院できました。
3週間後の現在は、傷口に触れると僅かに痛むことを除けば、もうすっかり回復しています。
ここ5年ほど続いていた、本人は「よるとしなみ」と暢気に考えていた症状(実は瀕死の疾患)が快癒したため
むしろ手術前よりずっとぱわふるで、えねるぎっしゅで、10年くらい若返っちゃった感じです。
今ならエル・キャピタン(ヨセミテNP)でもマッキンリーでも軽々と登れちゃいそう(な気分)。
1ヶ月前には(本人まるで無自覚でしたが)実は死にかけていただなんて、信じられないほど元気です。
お見舞いのメロンと白泉社Melody最新号(12月号:川原作品掲載)は固辞させていただきます。残念だなあ(笑)
始まりは、9月末にやらかした、単なる腹下しでした。(いきなし汚くてゴメンナサイ^^)
出すもの出して、水分だけはきちんと補給しつつ、落ち着くまでは禁食。
明日の昼にはお粥くらい食べられるだろうし、それで問題なければ夜はもう普通食で大丈夫でしょ。その程度の
普通なら医者に行くまでもない、本当にただの腹下しでした。
が、この時点でミュンヘン出発まであと10日足らずとなっていたので
万が一これが食中りや寝冷えでなく「腹にくる風邪」だった場合、それが夫にうつったりすると結構やっかいです。
で、一応、念のため、翌日の朝一番で近所の医者に行ってみました。
そこで症状とは無関係に様式美として検査採血され、そして翌日。昨日の医者から夫に電話がかかって来ました。
「今すぐ@@病院のエマージェンシーに行きなさい!あんたの奥さん、物凄い貧血よ、生きてるのが不思議な位!」
そりゃあ昨日は少しヨロヨロしてましたけど、あれは単に空腹だったからです。
まったくアメリカ人のオバサンの言うことは大袈裟だなあと笑ってしまいましたが
まあ医者の顔も立てておこうか程度の気持ちで指定された隣町の大学病院に行きました。
この位のことでERを使うな!ここは命に関わる急病、大怪我の人が来る所だ!と怒られそうだねとか言いながら。
そこで再度採血され、結果が出るまで搬送台に腰掛けて夫と談笑していましたら
検査結果を見て大慌てで飛んできた先生に驚かれた、「何で起きていられるんだ??」
ヘモグロビン値が正常の1/3くらいしか無かったそうです。
「倒れたことない?」「いえ一度も」「ふらふらしない?」「別に、全然」
「息切れとかは?」「あー!結構ひどい、です!!でも年のせいだと思ってました(笑)」
ここまで酷い貧血でこんなに元気そうなのも珍しいね、あなたは実にinterestingだ。と感心(?)されてしまいました^^;
食生活の改善とか鉄剤の服用とかそんな悠長なことを言っていられる状態ではないということで
その夜はそのまま病院に1泊して輸血、それと並行して貧血の原因を調べる為に各種検査を受けることになりました。
まずは今晩と明日の朝を絶食にして内視鏡。
その前に(昼を食べちゃった後でも大丈夫な)超音波をみてみよう、と検査室への移動を告げられ
ほいほいと靴をひっかけて先生のあとを歩いて行こうとする私。悲鳴を上げる先生。
「お願いだから寝ていて!台のまま押して行けるから!!」
病室(トイレ付き個室)に入ってからも「トイレは絶対に1人で行かないで、必ず看護婦を呼びなさい。
いつ倒れてもおかしくない、倒れない方が奇跡な状態なんだからね!」と厳命されてしまい
私、そこまで重篤だったんですか。とほほほほほ。
病院支給の寝巻き(巨大な割烹着みたいな後ろ開きの羽織り物)を着せられ、血栓防止の加圧靴下を履かされ、
腕には個人情報入り腕輪、胸には心電図用の電極シール5枚、ほぼ1時間ごとに血圧・脈拍・体温を測られて
「気分はどう?」と看護婦。「瀕死の病人になった気持ちです」と言いたかった私(そんな複雑な表現できませんが)。
結局その晩、濃厚赤血球2袋=600mlを頂きました。
(威張って言おう「私、アメリカ人の血が混ざってるんです」…メキシコ人やインド人の血かもしれないけど)
(冗談はともかく善意の献血者さんありがとう)(私はこれで永遠に献血不適格者となりました)
左腕に1滴1滴と有難い赤血球が入っていくと同時に、かなり頻繁に右腕に針が刺されて検査用の血を抜かれます。
記憶にある範囲で、一晩で4回。その前にERでも2回取られたし、勿体無くて勿体無くて仕方ありませんでした。
翌朝の採血では「まだ正常には遠いけど、今すぐ昏倒する心配は薄くなった」程度にヘモグロビン値が上がり
また内視鏡だバリウムだと苦痛を伴う検査をするまでもなく、昨夜の超音波と問診で貧血原因がほぼ判明したため
この日はこれで釈放。(赤血球効果覿面、駐車場の2階まで歩いても息切れしませんでした。)
翌週、改めて病院の予約を取って医師の診察を受けました。
退院前に話したときは「最終的には手術するのが一番だけど、イヤなら他にも治療法はあるよ。
急ぐ病気じゃないから、ゆっくり考えればいいから」ということだったのに
今日の診察では「また出血して赤血球が失われちゃうと勿体無いから、そうなる前に切っちゃおう」って
6日後にお腹を開けて臓器1個を摘出することが決まりました。
ひえ、急すぎます。ちょっと心の整理が^^
でもまあ、半年後なんて言われたら長すぎる待ち時間の途中で怖気づいて逃亡しちゃいそうだし。
結果的にはこれで良かったのかもと思います。
胃亜全摘とか言われたら、きっと激しく抵抗したでしょう。肝臓や膵臓、腸管も惜しい。
でも私が取ることになったのは以前から「要らんぞ」と感じていた臓器ですので、手術すること自体は大歓迎でした。
摘出のメリットは両手の指で数え切れませんが、デメリットは考えても考えても考えても1つも思い浮かびません。
ビキニなんか着る予定はないし、温泉での人目も気にならないと思うので、傷跡が残るのも全然平気です。
開腹そのものに対する恐怖も殆どなく、むしろ好奇心で少しわくわくな感じ?
まさかのことがあるとしたら全身麻酔の事故の方が危険性高いかなと、それだけが微妙に不安でした。
遠い昔に読んだ佐藤さとる「ネムリコの話」の中の麻酔マスクの描写がすごく怖かったことなども思い出してしまい
ちょっぴり情緒不安定です。
医者からは出来る限り寝ているように言われたけど、じっとしていると悪い想像ばかりしてしまうので
結局手術前の1週間は台所に立ちっぱなし、冷凍可能なおかずを作り貯めることに集中していました。
私の入院中(予定2〜3泊)の夫の食事と、退院後の2人の食事。
私の分は、茹でて細かく裂いた鶏肉、焼いてほぐした鮭、椎茸や香辛料を加えずに作った肉団子など
五分粥期から食べられるような素材も大量に貯蔵して、術後の万が一の体力低下に備えます。
鰹節のだしを取って冷凍、鶏の茹で汁をスープにして冷凍、これで液体しか摂取できなくなっても大丈夫!
消化器手術じゃないので順調に回復すれば不要な筈の流動食ですが、そのときは普通に夕食の材料に使えますし。
あとはジュースとヨーグルトと鮭缶とソーダクラッカーくらい買い置けばいいかな、あ、みかん缶も♪って
「身近に病人がいるとはしゃぐ悪徳栄養士」の由里さん、病人が自分でも同様に興奮できることが判明しました。
長くなるので、この項、来月に続きます。
どーせ縫い目の痛みが落ち着くまではジーンズが履けない=通院以外の外出は難しいので
11月はきっと日記に書くようなことは特に無く過ぎてゆくでしょう。ちょうどいいです。
そりにしても…私ってば、本当に運が強い。
もしもあのとき自分の貧血を知らずにミュンヘン行きの飛行機に乗ってしまっていたら
気圧変化に耐えられず「お客様の中にお医者様はいらっしゃいませんか!」の騒ぎを起こしていたかもしれません。
機内の狭い通路でぶっ倒れ、ぶつけどころが悪くて大流血なんかしてしまったら大変です。
大西洋上には緊急着陸できるような島もありませんから、冗談抜きに命に関わる話になっていた恐れがあります。
ドイツ到着後、少し疲れてるけどせっかく来たのにホテルで寝てたら勿体無い、と1人で街に出て
そこで救急車を呼ばれるような事態になっても面倒ですし
めでたく無事に楽しくヨーロッパの休暇を楽しんでダラスに帰り、そこで入院手術を勧告されたら
うわあ、もう夫は有給が残っていません、私に付き添えません。
「夫」が居てくれることは必ずしも必要ないですが、通訳がいないと絶対に困ります。
旅行前、ちょうどのタイミングで別件で医者にかかり、ついでの検査で見つけた無自覚の貧血。
…私は運が良い。この際、思い切って宝くじでも買ってみようかと考えています。
(「一生分の運を使い果たした」が真実だったらどおしよお^^)
10月
ほんとなら、我らがダラス・スターズは9月上旬からアイダホでキャンプに入る筈でした。(飯盒炊爨はしないよ)
中旬にダラスに戻ってきてサイン会(今年の目玉は何と言っても新加入Jagr!2時間待ち上等だぜぃ!!)、
そして25日の対ミネソタ戦を皮切りにプレシーズンマッチ8試合をこなした後
来月13日の@フェニックス戦(本拠地試合は16日の対フェニックス)で、2012-13シーズンが開幕する予定でした。
待ちに待った10月。もう切符だって買ってあったのに、のに、のに、
労使交渉って何?ロックアウトって何???
世の中に絶えてホッケのなかりせば 秋の心はのどけからまし。
のどかって言うか。ホッケーのない10月は退屈すぎて、刺激が無さ過ぎて、
このままじゃ30年早く呆けそうです。
あああホッケー見たい。
AHL(2軍相当)やCHL(厳密に言うとややこしいけど、まあ3軍と思っておけばOK)の試合は普通にあるから
それで我慢しときゃあいいんでしょうけど
それかNHLの無い今年がチャンス、ちょっと長めの日本旅行して新横浜か西東京でアジアリーグ見物とか?
いっそKHL(ロシア)、SMリーガ(フィンランド)、Elitserien(スウェーデン)に行けたら楽しいかも。
でもやっぱりNHLが一番いい。Starsに勝るチームは地球上に他に1つもありません。
どうか1日も早い調停を。
新しいレンジは、古い物と同じメーカー、ほぼ同等品。
機能や使い方に大きな差が無いのはとても助かります。
(日本語ですら読む気になりにくい「使用説明書」、英語のなんて表紙も見たくありません)
庫内を拭いて、回転皿を洗って、換気扇のフィルターつけて、ダクトを接続して、
(アメリカの電子レンジはガス台の上に吊るす形で設置するのが一般的で
だからレンジの底に換気扇、上部には屋外に繋がる排気管がついています)
旧レンジの取り外しと新レンジの設置作業の間、頭の高さでレンジを捧げ持ち続けた私は両腕筋肉痛、全治一日。
夫は外した古いダクトで右手人差し指をスッパリ切って全治一週間の大怪我をしました。
でも据え付けたレンジがきれいに動くので良かったです。
苦労して取り付け工事を終えていざ試運転してみたら皿は回らず煙が出ました!じゃ困ります。
(付けたレンジを外して、交換してもらった新品を設置し直して…ああううんざり)
旧レンジは、10年2ヶ月働いてくれました。
今度のレンジも同じくらい元気でいてくれますよーに。
そんなある日。
いつものとてとてとて……に続いて室内に響き渡った、聞き慣れない大音響。
ばりがりがりがりばりりっ!!!
音のした方=窓ガラス付近を指差し「ななな何何何何何!?!?!?!!!」と絶叫するわたくし。
一瞬立ちすくんだ後、夏の間はほぼ閉めっぱなしになっているブラインドを一気に引き開ける夫。
窓の外にはピカンの木。
枝に、大きな栗鼠がぶらさがっていました。
ちょっと伸びすぎた枝の1本が窓ガラスのすぐそばまで迫っているので
屋根から直接木の幹に飛ぶより、網戸を伝って枝まで下りたほうが栗鼠にとってラクだったのでしょう。
で、ついでに爪でガリガリとガラスを引っかいてくれた、どうやらその音だったようです。
「泥棒栗鼠ーっ!こんちくしょシチューにするぞ!」と再絶叫するわたくし。
「現行犯だーっ」と外に飛び出す夫。(捕虫網も金属バットも庖丁も手にしていません・念のため^^)
逃げた栗鼠。
遅ればせながら私も夫の後を追って外に出てみたら、まだ青いピカンの実が地面にいくつか散っていました。
あともう1ヶ月くらい待たなきゃ食べられないのに。勿体無い。ためいき。
翌日もまた来やがったので、とにかく証拠を押さえてやろうと隠し撮り。
結局こいつは1週間ほど毎日我が家を訪れて、割と豊作だったピカンを全滅させやがりました。
頭に来た。
でも、うちのピカンが実を付け始めて、今年で6度目の秋。
奴らが未熟な実に手を出すなんて、今回が初めてです。
いつもの年なら奴らは美味しく食べられる状態まで完全に熟すのをちゃんと待っていたのに
……去年の異常な猛暑で、公園の団栗が十分に実らなかったんだろうな。
だから貯蓄ができなくて、秋を待たずに去年の木の実を食い尽くしちゃって、
そんで青い実にまで手を出してるんだと
そう考えたら、少しだけ栗鼠が気の毒になりました。
向日葵とかピーナツとか、安い餌を少し撒いてやろうかな。
(餌付け状態になって半径2km以内に棲む栗鼠が全部集まってきちゃっても困るけど(汗
燕
本来なら本格的な飛行訓練開始まであと3〜4日は必要だった筈のツバ美ちゃんが、巣から転落しました。
幸いうまく軟着陸できたようで、外傷はなさそうです。
でも、親鳥は巣の下でピーピー鳴いてる彼女の存在には気づいているのに、一切給餌しなくなってしまいました。
芝生には美味しそうな小さなバッタがうじゃうじゃいるけど、それを自力で捕まえるのはツバ美にはまだ無理です。
育ち盛り食べ盛りなのに。お腹がすいて悲しいです。
それに地上2.5mの巣の中と較べて地表近くはとても暑いです。哀れツバ美は徐々に衰弱し始めました。
夜になったら野良猫が来るかもしれません。毒蛇もいるかもしれません。
私たちはツバメたちに軒先を貸してやっているだけ、飼っているつもりは全く無いので
親ツバメたちの子育てにも一切口出しをしない方針でやって来ましたが(ナンノコッチャ)
目の前に「放っておいたら死ぬかも」な子がいたら、やはり見過ごすことはできません。
最悪の事態に至る前に巣に返してやることにしました。
巣のそばに脚立をかけて、使い捨て手袋はめて、いざ地面でへたっているツバ美を夫が拾い上げようとしたら
なんと!馬鹿なツバ美め、夫の好意を踏みにじり、いきなり飛びやがりました!
まだ練習が足りないので高さは50cm、距離も数メートルほどしか飛べず、これではとても巣には帰れませんが
でも人の手から逃げるには十分すぎる飛行能力で、なんとももどかしい。
捕虫網を使えば何とかなるかしら。当たり所が悪ければツバ美に怪我をさせてしまいそうですね。
棒に紐を結わえて竹かご乗せて、下に脚をむしって飛べなくしたバッタでも撒いてみようなんて案も出ましたが
結局夫は捕獲を断念しました。せっかく脚立まで出したのに…
この脚立を一晩置いておいたら、一段(50cm)ずつ飛んで上がって自力で巣に戻れないかな。
野良猫が脚立を上って、下手したら一家全滅?それは困ります。
小鳥1羽の体重なら余裕で支えられるけど猫が乗ったらたちまち崩れるような紙製の階段をこさえるか
いや、残念ながらツバ美はあまり賢いタイプではないようなので、階段の使い方を理解してはくれないでしょう。
(毎日観察してるとよくわかるのよ、馬鹿なツバメと東大・早慶級のツバメがいるんだわ^^)
もう、打つ手はありません。諦めて、見捨てましょう。
上手く行けば、明日にはツバ美は自分で餌をとれるようになっているかもしれません。
反省した親が再び餌をくれるかもしれません。
両方駄目なら今日よりもっと衰弱が進んでしまう筈なので、そしたら案外簡単に捕獲できるかもしれないし、
運を天に任せましょう。
そして翌日…どうしたんだ、何があったんだいったい。
ツバ美の妹弟たち、4羽の子ツバメが、漏れなく全部地面に転がって大騒ぎしていました。
巣が壊れたわけでは無さそうだけど。
大好きな姉ちゃんが下にいるから、妹弟たちも真似して飛び落ちた?
4羽まとめて転落したんじゃ、親ツバメも育児方針を変更せざるを得ません。地面の子ツバメに給餌を始めました。
まずは安泰。(猫や蛇、そして地熱の問題は解決していませんが。)
そして4羽はばたばたと不器用に羽ばたきながら元気に地面を駆け回り(こんなツバメ、初めて見たわ)
いつの間にか飛距離が伸びて、高度も出るようになり、気が向けば巣まで飛んで上がることもできるようになり
結果的には通常とかわらぬ日数で巣立ってゆきましたとさ。
めでたし、めでたし。
何だか御機嫌斜めな表情のツバ美。赤いのは夫の草履の鼻緒です。
なお、ツバ美だのツバ太だのと書いてますが、雄雌区別はついていません。
などと言ってたら、ありゃまーっ。NHL、ロックアウトの模様です。
このままだと今期の試合は始まりません。
試合に行かないんじゃなくて行けない。試合がない。テレビ観戦もできません。
何とか回避されるよう祈ります。
西ナイル、大雑把に言うと「感染した鳥の血を吸った蚊に刺されるとうつる」病気です。
なので、蚊に刺されないようにすることが第一の予防法。
そのためには、蚊が活発に活動する夕方〜早朝の時間帯には外に出ないことが推奨されます。
って。
おい。
今は夏だぞ。
ここはダラスだぞ。
朝夕が駄目なら、いったいいつ外に出ればいいんだ?
昼の2時に草むしりをしろというのか。
テキサスだぞ。真夏だぞ。今日もやっぱり100度超えだぞ。
なのに町内会は前庭の雑草を12インチ(30cm強)以上に伸ばしちゃいかんと言うし、
だから定期的に庭に出て雑草の始末をつけなきゃいけないし、
だけど保健所は朝夕は家で大人しくしていろと言う。
保健所の別の部署は日中は屋内で過ごせと言う。
もー知らんがな。
今、ダラスでは、夜な夜な小型飛行機を飛ばしては殺虫剤の空中散布を行なっています。
うちの子ツバメたち、もう巣立ってしまって家には帰って来ないけど
たぶんまだ南に渡ってはいないはず、ダラスのどこかを飛び回っているはず。
餌になる小昆虫たちが死滅してしまって、ひもじい思いをしていないかしら。
薬剤をたっぷり浴びた虫を洗わずに食べてお腹を壊していないかしら。
ツバ代やツバ輔たちがどうか息災であってくれと祈る日々です。
(自分の命のほうがより優先なんで。薬剤散布には反対しません。仕方無いっす。)
気になるGPTは測ってもらえなかった
その必要性は十分に理解しているけど、でも面倒で、気がつけばずいぶんと久しぶりです。
夫、会社で健康診断。
その日のうちに身長体重・血圧・血液検査等の成績表を貰ってきました。
何年この国に住んでも、やっぱりフィート・インチの身長やポンドの体重には慣れません。
ああだけど、血圧の単位は日本と同じ「ミリ水銀」なのね。(ちなみに天気予報の気圧はインチ水銀です)
血中コレステロールや血糖値も「mg/dl」だ。
dl(デシリットル)なんて単位は小学校の算数以来お目にかかったことが無いので若干の戸惑いはあるけど
とりあえずメートル法だからなんとか理解可能です。
「オンス/ガロン」とかいうトンデモな数字を渡されなくて良かったです。
……で、その成績表。
夫の検査結果と共に、それぞれの「正常値(標準値、許容値)」が示されているのですが
胴囲(上限) 男性:40インチ(102センチ) 女性:35インチ(89センチ)
なんだこの値はーっ。
仰天しつつ調べたら、日本のメタボとやらの基準より余裕で大きな数字じゃないですか。胴囲なのに。
こんな奴らと一緒に検診受けても意味無ーーーーいっ!
せめて白黒茶黄、人種別に分けて欲しいよね。
きっとコレステロールも血圧も日米で正常値が違うんだろうな、アメリカのは激甘なだろうな、
ぐちぐち言いつつ、昔使った病態栄養学の教科書を引っ張り出して「日本人の」正常値を確認するわたくし。
いい加減古い本だから、その後改定された数字もきっと沢山あるのだろうけど、
でもウェスト89とか102とかを「正常」と表現するような機関の提示する正常値よりは
きっと信頼できると思うのでした。
(89cm…よしまだ大丈夫だ!と一瞬思ってしまったことは、しみつ。^^)
"All of those stuffed toy Otters you'd see at games will now be relegated to a shelf somewhere,"
スターズ戦のテレビ中継解説者"レイザー"が彼のブログに記した一文です。
stuffed toy Otters というのは、カワウソ(Otter)のぬいぐるみのこと。
スターズ戦の試合会場の売店で「それ」を買ったOttファンのオバサンたちは、
それを家に連れ帰り、手製のスターズ・ジャージやスケート靴を着せ付けて、
次に観戦に訪れるときには「それ」を同伴するのがダラスのとれんどでした。
スターズが得点したとき、殊にその功労者がOttだったとき、オバサン軍団はぬいぐるみを突き上げて、ぶん回し、
見事勝利を決めたらぬいの両手を後ろから支えて歓喜のダンスを躍らせたものでした。
(試合に負けたとき、その戦犯がOttだったとき、殴られ蹴られるカワウソを見た事は幸いなかったです^^)
あの100や200じゃくだらないだろう、たくさんの(大勢の)カワウソたち。
みんなレイザーが言うように、棚の奥に、車庫に積まれた段ボールの中に、追いやられてしまうんでしょうかねえ。
「5セント」のシール貼られてガレージセールに出されたり。
かわいそうなカワウソたち。
…我が家にも、このカワウソぬいが1匹います。(すち坊=2010年2月&12月参照)
大丈夫、私はお前の事は段ボールに幽閉したりしないよと抱きしめてやろうとしたら
哀れなすち坊、それより早く、泣きながらバッファローに向けて荷造りを始めていました。
ダラスのジャージ、チーム仲間のサイン入りのパックなど思い出の品々を段ボールに詰めて
おい、お前は別にダラスから引っ越す必要ないんだってば。今まで通りこの家にいていいんだってば。
でもすち坊の主観としては「オレ=本物のOtt」なので、トレードされたのも「このオレ」になるわけで、
さあ、どうやって説得しよう。
下手すると彼のあいでんててーが崩壊しちまいますし^^目下の所、わたくしの一番の悩みでございます。
今回はヤモ太の影がたまたま目に入ったから彼を救えたけれど。
洗浄機を作動させる前、中の確認など普通はしません。
そして洗浄機の中にヤモリが入り込むのを防ぐ手段はありません。
物を出し入れするとき以外は扉を閉めておけば良いのでしょうが
そんなことをしたら湿気がこもって臭くなる、下手すりゃ内部にカビが出ます。
と、ヤモリが入ったまま洗浄機を回してしまう可能性は今後「大いにあり」なわけで
はあ、どうすりゃいいんでしょ。
てか、もしかして、既に知らぬが仏の前科○犯だったりして。
うちの洗浄機の性能だとヤモリの子供の柔らかなお腹など水圧で破砕して、跡形も残らず流し去れる筈なので。
あああ、もしそうなら、一生そのまま何も気づかずにいたいよ。
洗い上って綺麗に乾いたお皿の縁にヤモリの干からびた左手だけがこびりついてるのなんか、絶対に見たくない。
………きゃあああ!!!
家なきエスカルゴ
知らん間にお釣りに貰ってたらしい、気がついたら財布に入ってたー、と
夫が25セント硬貨を1枚くれました。
山、針葉樹の林、鹿と思しき動物の絵と、そして「オリンピック ワシントン州」の文字が刻まれています。
おおおっ、これはもしか、幻の「アメリカ・ザ・ビューチフル・クォーター」?
米国と米領の島々にある国立公園を裏面の図柄の題材にした25セント硬貨(クォーター)、
2010年から発行が開始され、この6月現在で既に12枚が世に出ているはずですが
私が現物を目にするのはこのオリンピック国立公園の硬貨が初めてです。
13年前に前シリーズ「50州クォーター」が発行されたときはちょっとした社会現象?にまでなって
集めた硬貨をはめこむ穴のあいた米国地図のような便乗商品が大々的に売り出されたりしましたが
今回の(2匹目の泥鰌)国立公園硬貨はまるで話題に上ることなく、集めていると言う人に遭ったこともなく、
その国立公園硬貨というのは本当にこの世に存在してるんだろか?と疑いを持ち始めていたところでした。
無いなら無いで、集めなくて済むからラッキーじゃん?とも思っていたんですが
あはは、実在したんですね。
あるんだったら、集めなきゃなりません。集めるからには56枚完遂しなきゃなりません。
最初の1枚を手に入れるのに2年半かかったこのシリーズ、全部揃えるにはどれだけ時間がかかるでしょう。
今、スーパーでの買い物はいつもクレジットカード。ガススタンドもレストランも駐車場もみんなカード扱いです。
現金で何かの支払いをする機会など滅多に無く、てことは硬貨のお釣りを貰う機会も皆無に近く、
こりゃあ主義に反してでも、新しい1枚が出る度に銀行で新品を貰ってくるしかないのかもしれません。
私としては傷だらけでもいい、手垢がついて錆が浮いててもいい、
アメリカの市場に出回った、実際に使われた硬貨を集めたかったんですけどね…
てかその前に、50州に追加発行されたD.C.と米国領のクォーター(計6種)がまだ1枚も手に入っていないし!
前途多難であります。
…にしても、何故にオリンピックで鹿なんだろう?
確かに鹿もいたけどさ(見たけどさ)、でもあの公園を代表する生き物と言ったら「体長15センチ超のナメクジ」だしょ!
写真は自粛。お嫌いな方(新井素子さんとか)がご覧になったら口から泡吹いて倒れそうな化け物でした。
私は嬉々として写真&動画を撮りまくってたけどね^^
さて、そうして毎日毎日毎日子ツバメの観察をしていて気づいた事。
うちに来る成鳥は、ツガイの2羽だけではないらしい。
1羽が給餌しているところに次の1羽が飛んできて空中待機、そこに更に別の1羽がやってくる、
そんな場面が頻繁に見られるです。
夕方庭に出ると我が家の上空を5〜6羽のツバメがぐるぐる飛び回っていて
どうもその全員が我が家の巣に出入りしている様子……。
ツバメって、一夫一妻じゃなかったっけ???
ツガイの片方が欠けたとき、後添いの座を狙って一時的に複数の成鳥が集まる場合はあるようですが
普通やがてその中から1羽が選ばれ新たなツガイができ、負けたツバメたちは自然とそこを去るらしいです。
うちのツバメたちは、普通じゃない。
もしかしたらアメリカのツバメは日本のとは習性が違う、アメリカではこれが一般的なのかもしれませんけど。
(例によって日本語の文献しか調べていません。)
…ツバ子たちたちは成鳥が来れば相手選ばず口を開けます。誰からでも餌を貰います。
ツバ子たちが健やかに育ってくれるなら親が誰でも構わない、かな^^
複数の成鳥がいると、中には「自分くらい、さぼってもいーか」という無責任な奴も現れます。(右)
餌も持たずに飛んできて「どっこいしょー。あー暑いわしんどいわー」と巣の脇に座りこんでしまいました。
ツバ子たちが口を開けてるのに完全無視です。
真ん中のツバ太郎の落胆顔がおかしくて、かわいそうで、今季(いまんとこ)一番のお気に入り写真です。
この成鳥はしばらくして餌持ってきた別の成鳥に小突かれて仕方無しに餌探しに飛んで行きました。
雨雨けろけろ
我が家に「エル太」というカエルぬいがいます。
私はちーとも知らなかったけど、彼、3年ほど前に、日本の映画に出演していたらしいです。
台詞こそ1つも無かったものの、結構長時間(10秒くらい?)しっかり映っていました。
夫が「たまたま」借りて来た、私は大して興味もなかった映画、
観る機会ないまま(存在すら知らぬまま)一生を終えていても全く不思議はなかった映画です。
途中で止めちまおうかってくらい、私にとってはどーでもいい話で
でもNHLプレイオフの地区決勝、組み合わせが最低なんだもの、試合が全然面白くないんですもの、
どーにも暇だったので夫に付き合って居眠りをこらえつつ最後まで見ていたら
最後の最後、主要登場人物の「その後」の場面によく知った顔のカエルが出てきてびっくり、だったんでした。
拡大し過ぎて状況不明^^左手前がエル太、奥に彼の出演中の画面があるます。
蛙「わたくしのことは、どうぞ今後、俳優のエル太/銀幕スターのエル太とお呼びくださいませ。ふふ!」
由「???映画に出てたのは、あんたと同じ型の他所のぬいさんでしょ?」
蛙「いーえ、あれはわたくしです。」
由「なら、何で今までそのことを黙ってたの?言ってくれれば、もっと早くにこの映画みたのに」
蛙「いやー。私、奥ゆかしいから。自己宣伝はみっともないかなと思いましてね」
由「その割には自分のことスターとか言っちゃって…奥ゆかしくない気がするけど」
蛙「だってえ(はーと)バレちゃった物は仕方ないでしょ。私、真にスターなんです」
由「…映画に出たぬいぐるみなら、うちに、てばちゃんって先輩がいるよね」
*バッファローのてば、彼女の出身地NY州バッファローを舞台にした映画に、同型ぬいが数秒間映った
蛙「一緒にしないで。あの人が出たのなんかマバタキしてる間に見損なっちゃうくらいの短時間でしょ」
てば「そう一緒にしないで。このカエル、何の演技も無しに、椅子の上に【ただ居ただけ】だもんね。
ボクは【箱から投げ出されて地面に転がる】って難しい演技をこなしたもん」
蛙「1秒だけの演技ね。ぷぷっ」
てば「10秒間も、じっとしてるだけー。それってただの小道具じゃなーい?(笑)」
隆(大トトロ)「めくそはなくそ。わしなんか、本物の、国際的映画スターだし」
蛙「!あんたと映画じゃ、映画の方が先だった!あんたはただの【キャラクターグッズ】!!」
てば「キャラクターグッズだよねーっ!どーもとか、たれぱんだと一緒!!(爆笑)」
隆「でもわし、トイ・ストーリー3にも出たけど?」
どーも「どーもー!!!」
…収拾つかなくなってきました。
余湖Σ(「ぼのぼの」の「アライグマ君」)が下らない争いに参加せずに傍観してたのは
さすが大人の男の貫禄と申せましょう^^
さて、こーなると興味深いのは映画の最後に流れるクレジットタイトル。
彼の出身店である北欧家具屋の名前が「協力」として流されたりするんでしょうか。
手に汗握り、普段は気にも留めない服飾小物系の協賛会社ロゴが流れるあたりまで凝視して
でもあの店の名は出て来ません。
蛙「あ、見るとこ間違ってますね。【出演者】のとこに、私の名前ありましたでしょ」
え???巻き戻して確認するも、どこにも「エル太」なんて文字列はありません。
エル太の愛称「ふりゃあふりゃあ」も見当たりません。
蛙「どこ見てんですか。あるでしょ、【中村勘三郎】。」
由「…あんたの名前はエル太だよね???」
蛙「芸名って知りません?私の本名はエル太、でも映画に出るときは勘三郎名義なんです」
由「勘三郎は、大きな病院のお医者さん役で出てたあの人……」
蛙「いいえ、勘三郎は私です。威張りっ」
…誇大妄想つうか何つうか。本ぬいは幸せそうなんで別にいーですけど
でも本物の勘三郎丈に申し訳なくて。はああ。
・・・
西川美和監督、笑福亭鶴瓶主演(エル太曰く「主演は私=勘三郎」)『ディア・ドクター』
「暇を持て余してる方は全部どうぞ。普通の人は私の登場場面=最後の5分だけ見れば十分よ(エル太)」
当日、快晴。
昼間の気温は90度(32.2℃)を超え、これじゃ夕方になっても暑いな、日向での日食見物はつらいな。
でも日影に逃げちゃったらお日様は見えないし、どーしよお???と思って居ましたら
夕方7時過ぎに地平線付近に雲が出始め、7時半、欠け始めた筈の太陽は見事に雲の中。
そしてそのまま、日没。
……花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものかは。雲にむかひて欠けたお天道様をこふのも人生でしょう。
ダラスで見られる次の日食は12年後の春、皆既日食だそうです。
それを楽しみに生きて行きます。
(シュタイフベアも頼んだんだけどね^^・続き)
夫が買って来てくれたドイツ料理の本に載っていた、ドイツ風ジャガ芋団子。
必死こいて、その作り方を訳してみました。
「材料。ジャガ芋:500g。小麦粉:75g。卵:1個。…(以下略)」
……え。
作り方に添えられた写真では潰したジャガ芋がボウルに入っていて
やや窪んだその中央部に卵黄が「2個」落とされているんですが。(+卵白もたぶん2個分)。
算用数字は日本でもドイツでもアメリカでも共通のはずです。
「1」はどう訳したって(訳さなくたって)「1」でしかないでしょう。なのに何故。
写真は、何らかの事情で処方の倍量を作っている?
んにゃ、私の目測が確かなら、この芋はきっと500g分くらいしかないと思います。本文と同じ量です。
もしかして、眼鏡と鋏は1つで複数形、菓子パンは2つ半で5つ、パン屋のダースは13個、みたいなもんで
何か深〜い歴史的政治的宗教的事情により、ドイツでは卵2つを「1つ」と数えるのでしょうか。
きっとそうだ。日本でだって、目玉焼きなら「2つが1つ」です。
そういうことにしておこう、そうでないと先に進めない。
不明点は有耶無耶に誤魔化して、ずんずんと行きましょーっ!
…が、「作り方」1行目で、再び転倒するわたくし。
「1:粉質の芋を、皮ごと調理し、後に皮を剥いて熱いうちに潰す」
えっと。茹でるのか、蒸すのか、天火で焼くのか、まさかとは思うけど揚げるのか、
調理法によって随分と仕上がりが違ってくると思うんですが、そこんとこの指示が何もない。
芋の種類は指定されてるのに。
経験的にここは焼くのが正解、ラップをせずにレンジでチンが次善策かな、という気はしますが
食べたことのない異国の料理。確証が持てません。微妙に不安です。
焼くにしたって、ホイルで包むか否か、高温一気か低温じわじわの方が良いか、あー、もう、訳わかりません。
「芽を除いた芋を8つに切り、かぶるくらいの水を加えて蓋をせずに強火で加熱。沸騰したら火を弱め5分」とか
手取り足取り余計なお世話な日本の料理本に慣れすぎると判断力失われますな。
その後も(日米の料理本の構成を常識の基礎に据えてる私にとっては)不可解な解説文が続き
大変に困惑しつつ、それでも何とか最後まで訳し切ったので
書いてある通りに(書かれていない部分は推測して)芋を捏ねてみました。
結果、(日本的に普通の数え方で)1個目の卵を混ぜ込んだ時点で既に「やや緩すぎ」。
芋の水分はできる限り飛ばす方向で加熱したにもかかわらず、です。
2個目なんか加えたら、絶対にドロドロで団子に丸めるのは不可能になるしょう。
あの写真は何だったんだ。むう。
仕方がないので卵1個のまま味つけて、捏ねて、丸めて、茹でて、
当たって砕けろで初製作した芋団子、試食した夫の評価は「ドイツで食べたのとは全っっっっっっっっ然違う」。
でも、これはこれで美味しいかも。という慰めのような言葉も貰えたので、まあ良しとしましょうか。
いつか本場ドイツに行って本物の芋団子を食べてみたいです。
5日後、ダルとやらの2度目の登板日。
敵地での試合だったので生観戦した在ダラス邦人は滅多にいないでしょうが
(飛行機で僅か2時間のミネソタなので、行く奴は行く、かも)
きっとダラスの日本人はほぼ漏れなくテレビに齧りついていたのであろう、土曜の午後。
わしら夫婦は、近郊の町で開かれた障害者アイスホッケーの全国大会を見物に行っていました。
スケート刃のついた橇に座って行なう下肢障害者の競技【スレッジホッケー】と
審判が笛を吹くたびに壁のライトがビカビカ光る以外は一見普通のホッケーな聴覚障害ホッケーとを観戦し
前から興味を持ってはいたんだ、スレッジホッケーの虜になって帰って参りました。
四肢障害(立位)と知的障害も同じ会場で試合してた筈だけど、時間が合わなくてこれは見られず。
いつか機会があったらいいな。特に上肢障害のホッケー。
パラリンピックをもっとテレビで放映してくれたらいいんだけどね。
3度目の登板日は同じ時間帯にアイスホッケーのプレイオフが4試合も行なわれていて
私のスターズが出場していないのは非常に悲しく悔しいけれど、それでもアイスホッケーは大好きですから
そちらを忙しくテレビ観戦していたらとてもじゃないが野球どころじゃなかったし
4試合目はでび(悪魔姿のどーも君)がテレビに齧りついて離れませんでしたので自動的にホッケー観戦。
(デビルズ対パンサーズという試合、でびは狂信的デビルズファンです)
結局わたくしたち夫婦、ニュース以外ではまだ1度もダルの投球を見ていません^^
興味はあります。凄くあります。
でも、自分より先に他の日本人集団とマスコミに騒がれちゃったから、そこに遅れて合流したくない。
日本人会お揃いのTシャツで「きゃーっ、ダルビシュぅぅ!!こっち向いてぇぇぇ!!!」と嬌声をあげてる自分の姿は
どーにも想像できません^^
彼個人には本来別に何の恨みも無いので彼の不幸を祈るのは気が引けますが
もしも彼が軽い故障で戦列離脱してくれたら日本の報道はダラスを去って
そしたら私はきっと野球見物しやすくなるんだろうなあと妄想しています。
竜巻襲来は平日の昼間でしたので、夫は会社で仕事をしていました。
ちょうどドイツから来た出張者の相手をしていたところだったそうで
真っ暗な空と不気味な警報音に「何だ?何が起きてるんだ??」と怯えるドイツ人。
トルネードが発生したんだ、かなり大きいようだけど会社の建物の中に居れば安全だよ、と夫が教えたら
ドイツ人「トルネード!見たこと無いんだ!!」と目を輝かせて外に飛び出して行ってしまったそうな。
夫の話の後半、全く聞いてないな^^
(彼にとっては)残念なことに、会社の駐車場から目視できる範囲には竜巻は1つも湧いて出ず
でもきっと、彼は国に帰って「ダラスでトルネードを見た!テキサスはコワイ!」と大風呂敷を広げているんだろうな。
良い土産話ができて良かったねドイツ人。(だから「話題料」として義捐金ビッテ。)
竜巻は結局、ダラス近郊の2つの町を中心に暴れまくり、十数人の重傷者を出しました。
死亡者が1人も出なかったのが奇跡的な救いでしたが、家屋等の倒壊による経済被害は測り知れず。
ダラス地区の竜巻被害としてはここ数年間では最大だったらしいです。
で、この出来事を伝える翌朝の日本の新聞の見出し…【ダルビッシュ投手「驚いた」】
彼の所属球団の本拠地周辺、確かに特に被害が大きかったんですけどね。
でも。もーちっと書きようがあるだろうよとパソコンの前でしばし脱力していたわたくしでした。
ビアビッテ!!(欧州大寒波・続き)
突然にドイツ出張を命じられてしまった夫。
でもドイツ語なんて「ふぉるくすわーげん」と「ぞーりんげん」しか知りません。「こんにちは」さえも怪しいです。
幸い(?)出張先の社内公用語は英語です。空港やホテル(米系)も英語で大丈夫だそうですが
滞在中の食事は観光客相手でない普通のレストランで摂るわけですし、スーパーで買い物だってするでしょう。
急ぎ慌ててインタネット上で「ドイツ語旅行会話集」を探して印刷してみました。
【ホテルで】「シングルの部屋で2泊したいのですが」「シャワーのお湯が出ません」
【レストランで】「日本語のメニューはありますか」「お会計をお願いします」みたいな
最低限の例文と、入れ替え可能な単語いくつかをフリガナつきで列挙してあるアレです。
「幾らですか、の返事は聞き取れないでしょうから紙に数字を書いて貰いましょう」なんて実用的助言もあって
即興でみつけた会話集にしてはなかなか優れ物な雰囲気でした。
が。レストラン会話の頁をじーーっと眺めていた夫が一言、「一番大事な表現が載ってない」。
「ビールを下さい」が無いんです。
ドイツなのに。「ワインリストを見せてください」はあるのに。
もしかして、席に着いたら自動的にビールが出るとか?だから「下さい」を言う必要がないんだきっと!!
…んな訳はないでしょう。仕方なし、自動翻訳サイトで「Bier, bitte ビア・ビッテ(= Beer, please )」を調べ、
夫はビールの国に旅立ってゆきました。
数日後。現地の夫から、泣き言メールが届きました。「ビア・ビッテ、役に立たない」
えーっ!?複数サイトで二重三重に確認とったあの表現が間違っていたとは思えないのだけど
よほど発音が悪いのか?それともまさか本当に「言うより先にビールが来る」のか??
1週間後、帰ってきた夫によってその謎は解き明かされました。
ああドイツ。「ビール下さい」と頼むと、「どのビール?」と聞き返されちゃうのだそうです。
ビールと言っても白ビール、黒ビール、濾過したビール、濾してないビール等々たくさんの種類があって
さらにはビールをソーダやコーラなどで割ったビールのカクテルなんて物まで存在し
自分が欲しい種類をきちんと指定しないことには注文が完了しないのだそうです。
困り果てた夫、とりあえずその場は「隣と同じのを」で誤魔化して
宿に戻ってからパソコンをつなぎ、ドイツビールの種類について付け焼刃のお勉強。
結局、現地6泊の間に「白」「黒」という2つの単語を使いこなせるようになったそうな。夫、偉い^^
…ドイツでは、社員食堂にもちゃんとビールが置いてあったそうです。
コーラやスプライトのディスペンサーの隣にビールディスペンサーがあって
皆、一杯ひっかけながら仕事していたそうです。
次は是非ともフランス出張して食堂にワインがあるかどうか見て来たいと夢を語る夫です。
ぱらぱらと頁をめくって眺め楽しんでいたら、脇から夫が覗きこんできました。
「あ、こーいうの、レストランで付け合せに出たよ。面白い味だった」
どうやらじゃが芋の団子のような物らしいです。
「今まで1度も食べた事のない、すごく変わった食感で。あれは1度食べとくべきだよ」
そー言われても、ダラスのドイツ料理屋(私が知ってる範囲で2軒)にはこんな料理はありません。
となれば、自分で作るしかないわけで。
だけど私の手持ちの英語(または日本語)の料理本には、こんなレシピは載ってない。
てことは…このドイツ語の本を訳すほか、無い?????
…まあね、今の時代、パソコンを立ちあげてネットに繋げば、自動翻訳サイトなんて物があってくれます。
独→日の翻訳は微妙に怪しいかもしれませんが、独→英ならば、たぶんそこそこ信用できる結果が出るでしょう。
そして英文レシピなら、私でもなんとか読めます。
ですから、この本を読み解くことも、決して不可能ではないんですが
はあ、ウムラウトのついた字の入力って、超めんどくさいのよね…
食への興味関心の強さは、面倒臭さに勝ります。いつかは頑張ってこのレシピ翻訳に取り組むでしょう。
でも、頑張るんだから、お願い、どうかそうか、美味しいものであってほしい……
夫が「面白い」「変わった」としか言っていないことが微妙に気になるわたくしです。
今日。いつものように裏庭の雑草をむしっておりました。
(毎日8〜9時間xこの春既に5週間、たぶんあと10日くらいで「裏庭は」終わるでしょう…ぐったり)
と、すぐそばで、聞きなれた速度とリズムで「トテトテトテトテトテッ」の音が。
見上げると、裏庭を囲む木の塀(高さ6フィート≒180cm)の上を、尻尾ふさふさ見事なリスが疾走していました。
奴は塀が家の外壁にぶつかるところで「ひょいっ」と屋根に飛び乗って
とてとてとてとてっと走って姿を消しました。
去年、一昨年、私の大事なピカンを食い荒らしたのはあいつか。
イチジクを盗んだのはあいつの親か、兄弟か。えーい憎ったらしい。
いつか捕まえてシチューにすべく、奴をおびき寄せるための乾燥モロコシや向日葵の種でも撒いてみようかと
…そいともやっぱ、胡桃やピカンの方が好きかなあ…???
草むしりの最中、カメラを持っていなかったのが残念です。
カメラがあっても間に合わないくらいに俊敏な奴でしたが。
欧州大寒波
去年の夏のあの猛暑が未だに地味〜に続いてるような感じで、この冬のダラスは大変にぬくいです。
秋に日本から買って来たヒートテックとか言うババシャツも、まだ1度も着る機会がありません。
雪なんか勿論、全然降りません。
例年ならば「うっすら」から「数センチ」程度の積雪が1〜2回はあるのですが。
庭の雑草は秋口から休む事なく増え続けているし
いつも4〜5月頃から飛び回り始めるガガンボが既に大発生しているし
今年のダラスは本っ当にぬくいです。
欧州大寒波の報道がまるっきり他所の国の事のように思え(てか外国。別の大陸ですが)
凍死者が多数出ていると聞いてもまるでピンと来ず
なのに突然、その欧州、ドイツはミュンヒェンに!夫の7泊8日の出張が決まり!!
まともな防寒着を買い揃える時間もないまま、「ダラスの冬」の服装で飛んで行ってしまいました。
ビール飲むのは構わないけど酔って外で寝ちゃ駄目よと忠告を与え
賞味期限切れの使い捨てカイロが2個あったから気休めにそれを持たせたけど
はあ、生きて還ってくるんでしょうか………
飛行機事故より、治安より、何よりも気温が不安です。
(以下、来月に続く)(あ、既に生還は果たしているんんですけど。)
現在不在の鬼さん、いえ、夫の名誉のため念のため書きますが、彼は虎皮パンツを貯蔵したりはしません。
衣類の衛生に関しては私より夫の方が幾分マシな感性を持ってます。
(襟が破けていてもボタンが取れていても意に介さないのは私と同じですが)
だけど夫の単独出張中は私は普段の5割増しくらいに忙しく、これがきっと鬼の居ぬ間の洗濯なのだなと
決して普段は夫任せなゴミ出しとか風呂掃除とかを自分でやらざるを得ないせいではないのだなと
(以下、自粛)
来るのか…
やっぱり、来やがるんですか。
もうね。なんだかね。
いや、確かにとてつもない大物なんでしょう。
日本だけでなく、ダラスの報道もとても過熱していました。
夜のテレビニュースで奴の投球姿が映しだされない日は無かったし
ラジオをつければ「ニッパンヘン(=日本ハムのことね^^)」がどーの、「パチンコパーラー」がこーの、と喋ってるし
スポーツ系放送局のWebサイトは「ダル時計」で契約期限の18日午後4時までをカウントダウンし続けてたし
で、見事無事に調印にこぎつけた晩のニュースはもうひたすら「ダル!ダル!ダル!」。
私、別に、ダルという選手個人には何の恨みもありません。好き嫌い言えるほど彼を良く知りません。
(だって私が日本で見た最後の夏の甲子園って、松坂大輔が投げてたのよ??)
でも、この狂気に近い報道は勘弁してほしい。シーズン始まる前から既に食傷です。
去年も一昨年も妙に日程が悪くて1度も球場に観戦に行けなかったけど…今年はたぶん「行かない」だろうな。
テレビ中継を見る機会も減りそうだ。(ダルが投げない日なら見るかも)
嫁に試合前の国歌を歌わせて敵チームの戦意を削ぐって計画も正式に離婚が成立しちゃっては実行不能だし
かくなる上は、せめて。せめて、日本からダラスに来る大きな財布野球ファンが激増してくれたらなと思います。
毎日2往復の成田-ダラス直行便だけでは積みきれないほどの日本人が押しかけてくれて
ほんじゃあってことで成田-ダラスを増便、否、いっそ羽田-ダラス便を作って貰えたら。
(B777が満席になるなら!て747に機材変更するのはやめてねジャンボは乗りたくない)
ダル目当ての客目当て、球場でおにぎりとかソースヤキソバとか売ってくれるようになったら、そりも嬉しい。
…行かねえんだから関係無えか(笑)
ま、あんまり来て欲しくなかったけど、決まっちまった以上は仕方ない。せいぜい、頑張ってくれ。
Deadline for Rangers to sign Yu Darvish; 契約時間切れまであと00日00時間00分12秒!
まだ入団決定の報は入ってきません。どきどき。(実際はこの時刻には既にサインしていたようですが)
ところで同日、日ハムが旭川市にスポーツ振興のために2億円を寄付したってニュースを聞いたけど
それって明らかに元はウチ(レンジャーズ)の物だったカネだよな。
てことは、その一部(数円か、数銭か)は、私らのカネだった訳だよなあ…
(この十余年で10回くらい観戦して、ハンバーガーとか食べて、帽子2つ買って、2〜300ドルは使ってやったぞ)
……私たちに深く感謝しつつ、2億円分、きっちりとスポーツするように! >旭川市民
オライオン様は、AAC前の路上に野ざらし 屋外展示されていました。
皆さん台の上によじ上って素手でぺたぺた触りまくり、記念に油性ペンで落書きなんかしちゃってます。
よく見りゃ何かのオマケのシールまで貼ってあり。
係員はそばに2人いるけど笑って見てるだけ、制止のそぶりさえ見せません。
そりゃあマジックインキなんか溶剤で洗えば簡単に流れるんでしょうけど
でも、だからって、だからって、こんな好き勝手をさせていいのかNASA!アメリカ人の良識はどこにある。
てゆか、よく見ればNASA自身の扱いもかなり酷い。
展示用に内部を見易くするため(?)金属本体を一部分切って外してガラス窓を取り付けてあるのですが
そのつなぎ目が、よりによって………がむてーぷ。
高校の文化祭の段ボールロケットじゃないんだからさ^^せめてもう少しちゃんとしたパテとか使って欲しかった。
かわいそうなオライオンちゃん…くすん。
ガムテ部分があってくれたおかげでボールペンしか持ってなかった私も署名を残せた訳ではありますが。
金属のつるつる表面じゃボールペンは効かないもんね。
取り敢えず今回の教訓、いつ何があるか判らない。外出時は必ず油性ペンを携帯しよう。
例えばダルとやらに遭遇したらサイン貰ってヤフオクに流すとか。
オライオンちゃん、ニューメキシコからオクラホマを回ってダラスに来て、
この後はルイジアナで途中1泊してアラバマへ行くようです。
最終目的地はフロリダの宇宙基地。
トラックの荷台に裸のまま積まれてね、高速道をガタピシガタピシ走って行くんだよ。
途中の一泊はなんと、24時間安売りスーパーの駐車場だって。
行き会った一般人はさぞかしびっくりするだろう。
給油所で隣にこんなロケットが来たりしたら、驚愕のあまり、ノズル振り回して油を撒き散らすかもしれない。
………どうかどうか、道中ご無事で^^
左:よじ上る人。
右:びっしり一面の落書き、但し星条旗の部分だけは誰にも汚されず綺麗なまま残っていました。
これがアメリカ人流のもらるなのね…感服。
左上の銀色のガムテの中に小さく「由里」の名もあります^^(写真には写ってないけど)
最古(2000年11〜12月)//2011年//2013年//最新(2014年)の日刊つん太へ